「進化美学の可能性——美の自然化と芸術の反自然化」
三浦 俊彦(和洋女子大学)
「美」の生物学的起源が、進化心理学によって突き止められる(あるいはすでに突き止められている)可能性は高い。クジャクの羽やウグイスの鳴き声など、人間が「美しい」と感じる生物界の現象のいくつかは、当該種の個体にとっても魅力ある性質である。性選択で進化した表現形質こそ、当該種に固有の美意識を生んだ原動力と言えよう。人間の美意識も、人体美については、若さや左右対称性のように、性的な適応価のしるしが基本である。風景美についても、生存と繁殖に適した連想に応じて風景画が好まれる傾向があり、色、形、味、香はもちろんのこと、文学や思想に表われる「観念の美」のような複雑な美の基準ですら、社会的適応と深く関わっていると言われる。
こうして進化論に照らすと、芸術美を含むあらゆる美の原型は、機能美にあるらしい。適応を促す生物学的機能は、環境に相対的であるにせよ自然的性質(記述的性質)である。美の起源が適応にあるという知見を認めれば、「美の自然化」が達成できることになろう。しかも美の自然化は、善の自然化や意識の自然化のような困難を伴わない。まず第一に、「善とは、美しいことである」という言葉がいかにも自然主義的誤謬のように響く反面、「美とは、善きことである」が端的な虚偽として聞こえることからわかるように、美は善のような強い規範性を持たない。第二に、美の生物学的還元は、物理主義で捉えがたい「意識」のような要因を含まない。もちろん美の主観的側面については神秘が残るが、それはさしあたり心の哲学の領分であって、美学特有の問題圏を形成しない。
美の難問は、還元主義上の困難にあるのではなく、むしろ芸術との関係の捉え難さにあると言えよう。美が適応価であるならば、美は長期的目的とは独立であり、かつ、わかりやすい現象でなければならない。現に、高尚な芸術作品よりもポピュラーソングやコマーシャルデザイン、娯楽映画などのほうがはるかにすばやく心を捉え、「美」を感じさせる。これは、効率的な成功を期する大衆芸術・通俗芸術が人間一般の進化論的本能にアピールする戦術をとっているからだ。生物学的適応に合致することは悪いことではない。それではなぜ、正統的な芸術は「美しい」芸術を軽蔑するのだろうか。ここには、近現代社会の規範となった科学の権威が影響していると思われる。
昔は、美だけでなく真理も、表層的・現象的な概念だった。日常経験に合致した記述が真なる記述だった。しかし度重なる科学革命は、「真理」は現象にではなく深層構造にあることを明らかにしてきた。倫理についても同じことが言える。差別や戦争や復讐など、人間の本能的自然にもとづいた風習にではなく、抽象的な理念にこそ「善」の可能性が求められはじめた。
同様の脱自然的趨勢を、芸術も反映していると考えられる。しかし、二つの問題がある。一つは、「真」が科学の、「善」が倫理の理念であり続けているのとは対照的に、「美」の場合は、リニューアルした現代芸術の理念として引き継がれていないということ。真も善も、「かつての現象的なあの理念にはこの名はふさわしくなかった、本当は真(善)は違うものだったのだ」というふうに、内包の修正を被った(自然種として扱われた)。ところが美は、内包を保って従来の対象に適用され続け(つまり名目種として扱われ)、芸術の新しい理念から取り残されている。適用される事例は自然的性質でありながら、美そのものは規約的な訂正不能性を持つ。ここに、真、善に対する美の異質性が見てとれる。
もう一つの問題は、現象から離れた科学や伝統的慣習を超えた倫理に比べ、美から乖離してゆく現代芸術の試みには、確固たる社会的支持が寄せられていないという事実である。自然的本能からの離脱は科学や倫理では正統的方法となっているが、難解な現代アートがハリウッド映画よりも尊敬に値するかどうか疑問視する権威も多い。適応にはタイムラグがあるので、急速に成立した文明環境での高い適応価を探る現代アートが、更新世の環境に適応した現生人類の遺伝的趣味に必ずしも心地よく感じられないのは当然であろう。しかし、ひたすら感性からの離脱を自己目的化して美という客観的基準を蔑ろにしたとき、恣意的な価値主張が宗教的神秘化と権威主義の温床ともなりかねない。
美の生物学的自然化がなまじ容易であるがゆえに、美にとっての本当の問題とは、伝統的に芸術において占めてきた地位をいかにして保つか(あるいは放棄するか)ということになろう。この問題はむしろ「芸術」という概念の自然化しがたさを例証するものと言える。すなわち、反自然化しつつある芸術の観点からこそ、美は最重要の概念であり続けるはずである。
参考文献
スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』(NHK出版, 2004)
ジェフリー・F. ミラー『恋人選びの心--性淘汰と人間性の進化』(岩波書店,2002)
Voland Eckart, Grammer Karl, eds., Evolutionary Aesthetics (Springer,2003)
清塚 邦彦 | 「絵画における感情の表現について」 |
西村 清和 | 「「美的(感性的)なもの(the aesthetic)」の分析美学」 |