「絵画における感情の表現について」
清塚 邦彦(山形大学)
絵が分かるとはどういうことなのだろうか。単語の意味や人の発言内容の理解を問題にするときには、たとえば辞書に見合った回答を示せるかどうか、また滞りなく会話を継続できるかどうかというふうに、識別のための基準が比較的はっきりしているように思われる。しかし、言葉ではなく絵を示された場合に、それが分かるとか分からないとかという判断にはどれくらいの実質があるのだろうか。
絵の場合には、ピクトグラム(絵文字)のような半ば言語化された絵の場合を除けば、そもそも単語に相当するような要素記号を想定することが難しい。従ってまた、単語を連結して有意味な文を作り出すための文法規則を立てることはできないし、各単語の意味を確認する辞書を編纂することもできない。それゆえ、言語の場合に準じて考えるならば、絵には文法も意味論もない。とすると、絵に関しては分かるも分からないもないのか。
とはいえ、絵に疎いと自認する人でも、自分に示されている絵が風景画であるか静物画であるか人物画であるかといった違いははっきりと見分けられるし、それぞれの絵にどのような風景や静物や人物が描かれているかについてもっと詳しい記述を与えることもできるだろう。描かれた人物が楽しそうであるか悲しげであるか、描かれている情景が陽気であるか陰鬱であるかといったちがいもだいたいの所は見分けられるだろう。そのかぎりでは、どのような素人でも、絵が一定の内容を持つことは、たしかに理解している。
絵がこうしたさまざまな内容を表す働きを、ここでは慣例にならって二種類に分けておきたい。図式的に整理すれば、一方は、絵が目に見える事物の姿を描写・再現する(represent)働きであり、他方は、絵が、それ自体としては目に見えない感情や思想を表現・表出する(express)働きである。(これが絵の記号論的働きを網羅していると言うつもりはない。例えば、絵が、一定の事物を描写・再現することで、一定の観念を象徴する、といった働きも付け加えるべきかもしれない。)今回のテーマは、後者の表現・表出の働きであり、とりわけ、感情や気分が表現・表出される場合を問題とする。
絵が一定の感情を表現・表出するということが具体的にどのような事態を指しているのかをより明瞭にする手がかりとして、ゴンブリッチの分類※ に若干手を加えて、表現に関する代表的理論を次の三つに分類しておこう。
(1)絵が一定の感情を表現しているとは、絵がその一定の感情を受け手の側に生じさせることだ、とする喚起説(arousal theory)。
(2)絵が一定の感情を表現しているとは、絵がそのような感情を湛えた人物を描き出しているということだ、とする描写説(representation theory)。
(3)絵が一定の感情を表現しているとは、絵が、作者が抱いているそのような感情の表れとなっているということだ、とする表出説(communication theory)。
ゴンブリッチが指摘しているように、これらの理論がそれぞれに強調する喚起・再現・表出という働きは、決して対置されるべきものではなく、むしろどれもが表現という現象を理解する上で不可欠の要素である。適切な表現理論は、上の三つの側面すべてを包括的に説明するものでなければならない。
そうした包括的説明の手がかりとして注目したいのは(そしてまた、注目されてきたのは)、分析美学の論客達が「表現的性質(expressive property)」と呼ぶ現象である。それは、絵や音楽のように文字通りの意味では感情も気分も抱くはずのない対象の形状が、一定の感情や気分を言い表すはずの言葉で言い表される、という事態である。もっと身近な例で言えば、たとえば「彼女は悲しげな顔をしている」という言い方は、問題の女性が悲しみを抱いていて、それが顔に表れているという意味であることもあれば、内面とは無関係に、問題の女性の顔立ちが「悲しげ」という言い方にピッタリの形状であることを意味することもある。後者の場合には、ある物理的な形状が、元来は感情を表すはずの言葉で言い表されている。こうした場合に言い表されている当の性質が表現的な性質である。絵がさまざまな感情を喚起したり描写したり表出したりする際には、絵がこの種の表現的な性質をさまざまに持つということが、その可能性の条件となっていると思われる。
本発表では、絵がこのように表現的な性質を帯びるという事態をどう理解するかについて、A・トーメイ、N・グッドマン、R・ウォルハイムら、分析美学における代表的な理論について紹介と検討を行う予定である。
※E.H.Gombrich, “Four Theories of Artistic Expression”, in R.Woodfield ed., Gombrich on Art and Psychology, Manchester U.P., 1996, pp.141-155.
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