「ライプニッツとスピノザ ──現実性をめぐって──」
                           上野 修 (大阪大学)

 座る座らないは、座る前はいずれも可能である。だが、現に座ってしまったなら同時に座らないでいるのは不可能である。ゆえにその時点で座っているのは必然である。古代の様相論はそう考えていた。今日のわれわれには奇妙に思われるかもしれない。われわれなら、現に座っていても、同じ時点で座っていないことは論理的に可能であると言うだろう(これはスコトゥス、ライプニッツ以来の「同時的可能性」である)。私は自分が今このときに座っていない可能世界を考えることができる。とすれば座っているのは必然ではない。私は座っていないこともありえただろう。しかし、かかる様相理解は二重の意味で「現実性」(actuality)を取り逃がす。一つは、なぜある可能世界(だけ)が現実なのか、という意味での現実性。世界現実と言っておく。もう一つは、ある時点で何かが現実化するとはどういうことか、という意味での現実性。いわゆる潜勢態との対で言われる現実性である。この二つを合わせたとき、現実性は「いま」かくあることのある種運命論的な必然に関わってくる。座っていないこともありえたのなら、なぜ現にそうしていないのか。ライプニッツとスピノザはそれぞれに答えを用意しているように思われる。
 周知のとおり、世界現実へのライプニッツの答えは最善世界選択説である。論理的に言って、共可能的な出来事からなる世界が一通りというはずはない。だから互いに共立しない無数の可能世界がある。しかし「世界は一つしか存在しえない」ので、そこから一つが選ばれたと考えるしかない。選ぶのは神で、選ばれる理由はそれが最善だということである。だが、それだけでは存在への権利が認められただけで現実とはならない。知性による選択に加えて、意志による創造がなければならない。可能世界のストーリーは無時間的に確定され完結している(さもなくば共可能性や世界選択は語れない)。しかし創造は可能世界に、現に展開しつつある「いま」というものを与える。この「いま」を、われわれは現に座っている以上座っていないことはできないという仕方で経験するのである。このストーリーにいる限りは可能な別のストーリーにいることはできないという共立不可能性を、まさにそのストーリーにいる者がその展開の中で引き受けざるをえない必然。ライプニッツはこの種の別様でありえなさを論理的必然から区別して「確実に起こる」(assuré)と表現し、展開の現在を微分法的な「傾向」の現在として言おうとしていた。この種の決定は「傾けさせるが必然化はしない」。必然化はしないが間違いなく展開させる。現実性は全未来と全過去を含んだモナドの小暗い表象の推移に定位され、潜在的なものの—最善であると解釈すべき—現実化という意味を与えられる。
 他方スピノザはどうだったか。ライプニッツは現実世界が一つしか存在しえないことを前提に最善世界選択に進む(最善世界が一つだけ残るから現実世界が一つ、なのではない)。が、スピノザにとっては、なぜ一つしか存在しえないのかということこそが問題である(ルイスの現実性指標詞説を想起せよ)。スピノザの答えは、必然的に存在すると言えるようなものは神しかなく、すべて在るものは神のうちにあり神によってでなければ考えられることもできない、というものだった。神とはその外が絶対に不可能なものである。神が可能世界の一つを現実化する、のではない。神自身が、そして神のみが、現実化しうる唯一の世界であり、それ以外はすべてはじめから不可能だった。世界現実をこのように考えるスピノザは、現実化の「いま」を必然的な様態産出のいまとして提示する。「いま」が別様ではありえないのは、唯一の神が別様でありえないということと同一である。私が現に座っていながら、座らないでいることもありえただろうと言うことは、現に神が存在していながら、それと異なった本性を持つ別な神’が存在しているかもしれないと言うのに等しい。私が現に座っているなら、それはそれ以外が形而上学的に不可能だからそうしているのである。スピノザにとって「現に」と言われる「いま」は、このような産出の必然の「いま」である。可能なものが神の知性の中にあらかじめあって、そのあるものがいつか実現される、という発想をスピノザは転覆させる。神的実体の無限に多くある属性は現に存在しない個物の本質を含んでいる。神の知性が含んでいる、のではない。無限知性は他の属性に並行する思考属性の様態にすぎず、産出の「いま」においてようやく何が可能な個物であったのかを知ることができる。それが、神には意志も知性もない、目的も原理もないとスピノザが言う意味である。スピノザはこの必然的な産出を「永遠性」と考えていた。現に座っていることを神の必然として考えるとき、われわれはそれを永遠の相のもとに見ているのである。

松田 毅 「ライプニッツ的「合理性」をめぐって」
山内 志朗 「ライプニッツにおけるアヴィセンナの声──共通本性の系譜──」