「ライプニッツにおけるアヴィセンナの声──共通本性の系譜──」
                         山内 志朗 (慶應義塾大学)

 実在論・レアリスムの徴表とは、どこにあるのだろうか。普遍論において、実在論か唯名論かを分かつ基準は、普遍は事物の中に(in re)実在するかどうかにあるのではない。ポルフュリオス的な整理ではそのように見えてしまうが、そうではなかった。たぶん問題はスコトゥスの実在論がなぜ実在論と言えるのかだ。
 スコトゥスの普遍論争における位置づけと、それが個体化論とどのように関連するのか、大掴みながらも整理しておく必要がある。
 十三世紀において問題となる普遍は、「個物の中の普遍」だが、しかし大事なのは、十三世紀においてはこれは普遍とは記述されず、普遍とも認められていなかったことは話の冒頭にくるべきことだ。テミスティウス=アヴェロエス的整理においては、「能動知性が事物の中に普遍を形成する」という格率が重視されていた。事物の中の普遍は、知性によって構成されるものであり、本来の意味での普遍は知性の内にしかない、と考えられていた。なお、普遍は名称にすぎない、という立場はきわめて近世的な整理である。普遍が名称(nomen)でもあるというのは誰でも認める立場であり、名称が普遍として機能する起源がどこにあるかが、十三世紀的な普遍論争の要点である。
 十三世紀における普遍論争は、アヴィセンナの『論理学』と『形而上学』、ガザーリーの『形而上学』、アリストテレス『デ・アニマ』への諸注解などの導入以降成立したものであると考えられるが、まず大前提となるのは、普遍とは「個物より後」のものであり、概念であったということだ。これがテミスティウス=アヴェロエス的概念論の基本路線である。
 それに半ば対抗するのが、アヴィセンナ的な「実在論」なのである。注意すべきなのは、アヴィセンナ的実在論とは、普遍が事物の中にあると主張するものではないということだ。
 事物の中にあるのは「共通本性(natura communis)」──この言葉はアヴィセンナの中に登場することはないし、またその主張者と見なされるドゥンス・スコトゥスでさえも、ほとんど使用したことのない、きわめて奇妙な用語である──でしかなく、この共通本性は普遍でも個物でも、現実態でも可能態でもないものである。つまり、普遍の基盤となる「共通本性」を事物の中に認め、そして本来の意味での普遍は、この共通本性を基盤として、能動知性によって概念として構成されるものだと考えるわけである。つまり、普遍は能動知性によって構成され、個物の後にくるものだが、事物の中に基礎を持つ(cum fundamento in re)ものだという主張がそこに見られる。
 「馬性は馬性でしかない(Equinitas est equnitas tantum)」という格率は、十三世紀においてなかなか理解されなかったが、トマス・アクィナスによる理解の後、パリ大学を中心として急速に広まり、ガンのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥス、スコトゥス派(アニックのウィリアムなど)に受容された。
 このように「馬性の格率」は、普遍論争をめぐる中心的格率なのだが、実在論(「穏やかな実在論」)に直接連動するものではなく、唯名論的思想とも結びつくものだ。ここで、実在論と唯名論という呼称を捨てることも十分考えられるが、もし捨てないで、アヴィセンナ−スコトゥスの系譜を「実在論」として整理しようとすれば、その際の指標となるのは、個体化論との関連で二つあるように思われる。
 ライプニッツがレアリスムであるというのは、常に感じながらも、その徴表を見いだせないままだった。というのも、ライプニッツは、近世の唯名論の立場を擁護し、そして『個体原理論』においても、スコトゥスを極端なレアリストとして批判し、「このもの性」を批判しているのだ。このように見ると、ライプニッツをレアリスムの系譜に入れるのは難しいようにも見える。
 『個体原理論』を読み直してみると(私自身、ライプニッツからスコラ哲学に入り込んだ理由の一つは、『個体原理論』の典拠となっているムルキア、メルケナリウス、バッソリウス、ペレリウス、フォンセカなどといったスコラ学者の説を理解した上で、ライプニッツの思想の依って立つ思想基盤を理解したかったからだ。今頃になって初心を思い出した)、ライプニッツは初めからレアリスムであることを宣言していた、と私は読みたい。レアリスムが、普遍実在論と思いこんでいては見落とすかもしれないけれど。
 ライプニッツは、このもの性を否定しているように見えるが、それはライプニッツ自身がこのもの性を誤解していたからだ。彼はそれを意識していた。だからこそ、その後もこのもの性を使い続けるが、別に批判する文脈で使用しているのではない。
 「naturaは自らを限定する」が『個体原理論』の結論だった。ここにライプニッツの個体的概念、モナドの源泉がある。予定調和もそこから出てくる。ライプニッツのモナド論、予定調和説は、アヴィセンナ的源泉をライプニッツ的に発展させたところに生じると私は考えている。

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