発表題目:性格論争の行方と徳認識論の弁明

東京大学大学院総合文化研究科科学史科学哲学研究室修士課程2年 飯塚 理恵

 近年、実験社会心理学的な発見を基礎に哲学者のJohn Doris (2002, 2005)、 Gilbert Harman (1999, 2000, 2005) らは性格特性概念の批判をしてきた。彼らが参照する経験的データは、ムード効果(Isen and Levin 1972)、傍観者効果 (Latane and Darley 1970)、善きサマリア人の実験(Darley and Batson 1973)、 正直とごまかしに関する実験(Hartshorne and May 1928)、ミルグラム実験 (Milgram 1974)、スタンフォード監獄実験(Zimbardo 1974)等、多岐にわたる。まず、心理学的状況主義者達はこれらの実験から、人間の行動が道徳に 関係のない状況要因によって著しく影響を受けることを発見し、様々な状況を 通じて保持されると想定されてきた性格特性の存在を否定した。我々は日常的 に「彼は思いやりのある人だ」、「彼女は勇気がある」等の性格特性帰属を行っており、心理学的状況主義の帰結は大きな論争を巻き起こしたが、それ自体哲学的な主張を含んではいなかった。しかしDoris に代表される哲学的状況主義者達は、心理学的状況主義の主張を押し進め、ほとんどの人が性格特性などというものを持っていないならば、性格特性をベースにしている伝統的な徳の理論は経験的に不適切であるという哲学的主張を展開した。
 以上のような状況主義からの挑戦に対して、徳倫理側から応答がなされている。それらの応答はいくつかの種類に分けることができる。まず、状況主義の 理論的想定を疑う立場がある。例えば、多くの人が徳を持たないことから、「徳を持つ人の数が不十分で、徳倫理は経験的に不適切な理論である。」と帰結するのがなぜ正しいのかという疑問がある(Sreenivasan 2013)。また、Upton(2009) は、Doris の薦めるローカルな(貫状況的でない)性格特性を受け入れた方がむしろ我々の性格特性や徳概念をよく理解できると言う。他に、状況主義が依拠 する経験的データの解釈を疑う立場がある。例えば、Alonza(2005)、Sreenivan (2008, 2013)らは、一回の実験で性格関連行動が見られなかったという事実のみ から状況主義的結論を導くのは誤りであり、行動の群を見れば性格特性は十分 示されると主張する。最後に、経験的データがむしろ徳倫理を支持しているという立場がある。近年Alfano(2013)は、グローバルな性格特性が持つ自己充足的予言の機能が我々に与える影響を考慮し、徳を擁護している。
 以上のような応答によってある種の性格特性や徳倫理理論が擁護され得たとして、それが全体としてどのようなものになるかまだ明らかになっていない。更に、徳認識論のうち主に性格特性を基礎にする責任主義と呼ばれる立場は徳倫理と同様にこの問題に正面から対峙せねばならないにもかかわらず、徳認識論と性格論争の議論が尽くされていない。本発表では既存の徳倫理の応答や状況主義の分析を手がかりに、徳認識論はいかなる性格概念や徳の擁護をすべきかを示し、その結果徳認識論が受ける影響や理論的制約を明らかにしたい。