黒田 亘「ヒトと動物の境」の批判

槇野 沙央理(千葉大学)

 黒田 亘は論文「ヒトと動物の境」(1976)において、言語に二つの意味を持たせようとした。一つは、人と動物の区別の基準としての言語である。二つめは、人と動物の原始的な連帯を示すものとしての言語である。人間は、言葉と言葉を置きかえるだけではなく、言葉と身振りを置きかえることによって動物と連帯しているという。例えば、泣き叫ぶことと「痛い」という言葉を置きかえることがそれにあたる。
 率直にいって、私は二つめの意味付けに懐疑的である。その理由は、二つある。一つは、本能的な「身振り」ということをよく考えてみると、黒田のいう、言葉と身振りの置きかえ操作がいつ成り立っているのかわからなくなるということだ。一言で身振りといっても、生理現象に近いものもあれば、記号とほぼ同じように用いられるものもある。これについて黒田は乏しい具体例しか与えていないので、何を身振りと考えるかによって、どんな置きかえ操作のことを想定しているのか変わりうる。それだけならかまわないが、試しに具体的な置きかえ操作を想定してみると、黒田の想定する形での置きかえ操作が、実は成り立たないように思われるのである。
 二つめは、黒田が「動物的基底」(人と動物の連帯を示す概念である)と呼ぶところのものの意味が明らかでないことである。動物との共通点を指すのであるに違いないが、単なる共通点を示すには大げさな表現である。きっと何かしら、本質的で根本的なものを示したかったのだと思われる。しかしそれは何であるのか。仮に動物的基底というものがあったとして、それに何らかの条件を追加すれば、動物も人間のような言語を使用すると言っていいような状況になるのか。事態は、黒田論文の内部で解決可能な範囲を超えている。
 私は、本発表で、今述べた二つの理由を詳しく論じる。そのうえで、人間の振舞いを人間固有のものにしている条件を提示する。人間の身振りは、たとえそれが本能的な身振りであるとしても、他者による意味付けからは逃れられない。他者を無視することもできない。人が他者から意味付けされるということは、価値判断の対象となることであり、意味付けあいの連鎖に巻き込まれて存在しているということである。この視点から見る時、黒田論文の問題点はいっそうはっきりしてくるだろう。