動物倫理における個別的関係の重要性について
久保田 さゆり(千葉大学)
本発表の目的は、人と動物(典型的にはペット)との間に築かれる個別的関係が、動物倫理の議論において、一定の重要性をもつと示すことである。動物倫理の議論は、これまで主に功利主義の立場や義務論の立場に基づいてなされてきたという経緯がある。これらの立場から動物倫理について論じる主な論者として、功利主義者のピーター・シンガー(Practical Ethics, 1993)と、義務論的立場から動物の権利について論じるトム・レーガン(The Case for Animal Rights, 1983)が挙げられる。シンガーの基本的な方針は、利益にたいする平等な配慮という原則から動物への配慮を導くというものである。功利主義者であるシンガーの議論によると、配慮すべき利益をもつための唯一の条件は、快苦を感じる能力をもつことである。そして、人間以外の多くの動物もその能力をもつ存在であるということから、その快苦の種類や程度に応じて平等に配慮すべきという見解が結論する。つまり功利主義からは、幸福の最大化のために、動物を含めた快苦をもつすべての存在の快苦を平等に配慮することが主張される。一方、義務論者であるレーガンは、主に危害原理と尊重原理に基づき、ある一定の基準をクリアする一部の動物を、固有の価値をもつ生の主体であるとする。そしてひとたび生の主体と認められた動物は、同等の価値をもち、尊重原理の対象になるとされる。
上記2つの立場は、互いに対立するものの、どちらの議論も以下の特徴を共有する。つまり、人間同士の間で認められている配慮の根拠となる特質を吟味し、その特質を共有しているにもかかわらず、人間ではないからといって人間以外の動物を排除することは、普遍化可能な態度ではないため許容できないと主張する点、配慮の根拠となる特質を、配慮の対象となる存在自身が独立にもつ特質に求める点である。そのため、どちらの立場からも、同じ特質をもつ存在は、みな同じ仕方で扱われるべきであるということが主張される。
以上の立場には困難もあると考えられる。われわれは、非常に多様な仕方で動物と関係を結んでいる。一方には、密接で相互的な関係を結ぶペットとしての動物もいれば、他方では、人間との関係をほとんどもたない野生の動物もいる。功利主義や義務論では、動物がどのような環境で生きていようとも、同じ特質を有している限りにおいて、同等のものとして理解されねばならないとされる。しかし、人間による動物の扱い方がどのようであるべきかという問題を論じる際に、これらさまざまな状況にいる動物すべてに等しい扱いを求めることは現実的でないように思われる。
本発表では、人間と動物とが実際に結んでいる関係の濃淡を考慮に入れるために、人と動物の個別的関係に注目し、その倫理的な重要性について論じる。人間と動物が実際に結ぶ関係という観点については、デヴィッド・ドゥグラツィアの“The Ethics of Confining Animals: From Farms to Zoos to Human Homes”やヒラリー・ボックの“Keeping Pets”などを参照しつつ論じるつもりである。個別的関係を重視した配慮は、普遍性を重視する立場からは、偏愛として批判される傾向にある。それにたいし、本発表では、個別的関係に基づく配慮が多くの点において、たとえば配慮の拡大という役割や配慮の内容の豊かさといった点において、倫理的に評価されうるということを示したい。