デイヴィドソンと大規模な懐疑論
木下 頌子(慶應義塾大学)
デイヴィドソンは、言語の本性についての洞察に基づいて、懐疑論──世界について我々が信じていることが大規模に誤っているかもしれないとする懐疑論──を否定しうることを、多くの論文において繰り返し主張している。本発表は、このデイヴィドソンの反懐疑論的主張を導く論証の検討を課題とするものである。特に、入り組んだこの論証の構造を明確し、論証の妥当性に対して一定の評価を与えることが目指される。デイヴィドソンの言語に関する洞察は、クワインの根元的翻訳のアイディアを引き継いだ根元的解釈の場面を想定することによって引き出される。根元的解釈とは、まったく未知の言語に対してその言語の話し手の態度と周囲の状況のみを手がかりにその言語の意味の理論を構成していくプロセスである。こうした仮想的状況において、根元的解釈者が解釈に成功するためには、「寛容の原則」すなわち、相手の信念が大部分正しくなるように解釈せよという原則に従わねばならないとデイヴィドソンは指摘する。そして、この「寛容の原則」の存在に基づいて、デイヴィドソンは、我々の信念は大部分真であることが言えるという帰結を導くのである。
Stroud (1997) はデイヴィドソンの反懐疑論的主張が基づく前提は、基本的にこの「寛容の原則」のみであると理解する。その上で、デイヴィドソンが自身の解釈の理論から引き出せる帰結は「信念は解釈者から見て大部分真である」という弱い主張にすぎないと指摘している。つまり、この弱い主張と「信念が大部分真である」という強い主張の間にはギャップが存在するのである。そして、このギャップが埋められない以上、デイヴィドソンはこの弱い主張で満足するべきだというのがストラウドの診断である。
しかし、Verheggen (2011) によれば、ストラウドの診断は彼がデイヴィドソンの論証の前提を見過ごしていることに基づく。ヴァーヘッゲンは三角測量のメタファーを用いた後期の議論に注目し、デイヴィドソンの反懐疑論的主張が、解釈の条件に関するテーゼだけでなく、そもそも思考をもつことが可能となる条件に関するテーゼに基づいていることを指摘する。すなわち、「思考が可能であるためには、コミュニケーションの文脈が必要である」というテーゼである(TRテーゼ)。ヴァーヘッゲンは、このテーゼを認めるならば、ストラウドが想定するよりも強い、デイヴィドソンが本来意図していた主張が得られることを論じている(ただし、ヴァーヘッゲンはTRテーゼ自体の正しさについては評価を差し控えている)。
発表者は、ヴァーヘッゲンによる論証の理解が基本的に正しいものだと考える。そこで、まずヴァーヘッゲンの提案に沿って、デイヴィドソンの反懐疑論的論証を正確に再構成することを目指す。その上で、TRテーゼがデイヴィドソンの哲学的枠組みにおいてどのように正当化されるのかを検討し、彼の反懐疑論的論証に一定の評価を与えたい。