妄覚と正常な知覚とをいかにして区別するか—フッサールの検討を通じて—

金子 研太郎(東京大学)

 外界の情報を獲得する方法のうち、われわれ人間にとって最も根本的なものは知覚である。ところが、われわれはしばしば知覚に失敗する。たとえば、存在する対象について誤った知覚をしたり、そもそも存在しないものを知覚したりする。一般に、前者は錯覚、後者は幻覚と呼ばれ、両者は合わせて妄覚と呼ばれる。主観を用いては妄覚と正常な知覚を区別することはできない。それでは、妄覚と正常な知覚とをいかにして区別すればよいのか。
常識的に考えれば、対象と知覚との間に正常な因果連関が成り立っていれば正常な知覚であり、正常な因果連関が成り立っていなければ妄覚である。だが、因果連関による説明には疑問が投げかけられることもあるし、そもそも対象への客観的なアクセスが可能かどうかにも疑問を投げかけることはできる。
 ところで、フッサール(1859-1938)の現象学は、対象の実在/非実在を前提としない理論であった。すなわち、彼は対象の実在/非実在に訴えかけることなしにわれわれの意識の働きを説明しようとしたのである。彼がとりわけ取り組んだのは認識という概念を明らかにすることであった。そして、彼にとって認識の範例は知覚であった。そうだとすれば、妄覚と正常な知覚とを区別することは彼の理論にとって些細な問題ではないだろう。それでは、対象の実在/非実在を前提としない彼の理論は妄覚と正常な知覚とを区別することに成功しているのだろうか。
 本発表では、『論理学研究』(1900/01)と『イデーンI』(1913)を中心に、フッサールが妄覚と正常な知覚とをいかにして区別しているのかを検討する。本発表で示すのは、『論理学研究』ではこの区別が困難であること、『イデーンI』においてこの困難を乗り越える発想が見られること、そして、この発想のゆえにフッサールは知覚にかんしてある種の外在主義に立つということである。これらの作業を通じて、フッサールの思考と常識的な思考の距離が測り直されることになるだろう。