ヒューム自我論における「知覚の所有者」問題
岡村 太郎(京都大学)
デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』(A Treatise of Human Nature)によれば、自我の観念とは「知覚の束」から成るものであり、それら諸知覚が類似、因果という関係によって結び付けられることで、その「束」は「私」とみなされる。このような「知覚の束」説は様々な形で批判を加えられており、ヒューム自我論の欠陥は彼の哲学体系全体の欠陥であると見なす向きも少なくない。これらの批判の中でも、本発表では「知覚の所有者」問題というものを検討する。この批判は次のような問題を指摘する。上記のようなヒュームの自我論によれば、ある知覚は、類似、因果という関係を介し思考において自然に感じられることで、その所有者は「私」であるということになる。しかし、この説明では知覚の所有者は決定され得ないという問題を抱えている。ヒュームの説では、知覚間の、思考や想像力の移行の滑らかさが説明されているだけであり、その知覚は他人ではなく「私」が見ているものだというわれわれの日常的直観を汲み取れていない。このようにこの種の批判は主張する。
こういった指摘は非常に強力なものに思われるが、本発表では知覚の所有者決定の問題はテクストの他の箇所、とりわけ間接情念論に示唆されており、ヒュームの自我論はこの問題によって直ちに棄却されるべきではないことを指摘する。 間接情念、例えば誇り(pride)は、他者の視点から自分の知覚を見ることによって産まれる情念である。ここにおいてヒュームは自分の知覚と他人の知覚の区別を素朴に導入しているように思われるかもしれない。そうだとすれば先の批判には答えられていないこととなる。しかし、ヒュームは「誇りは自我の観念を生む」という、自我の観念を前提しない形での独特の枠組みを提示しており、そこには自分の所有する知覚が決定されていくプロセスが示唆されていると言える。