他者の経験を理解することはできるか—不登校経験者による体験記述の存在論的解釈—

満江 亮(山口大学)

 登校拒否や不登校は、現代日本における重要な教育問題として、これまで多くの専門家によって論じられてきた。しかし、近年の傾向として、不登校経験者・当事者の視点による研究の必要性が叫ばれている。とくに、貴戸理恵『不登校は終わらない 「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』(新曜社、2005年)では、これまでの不登校研究が〈非当事者〉からの指摘にとどまっており、〈当事者〉の視点が不在であるとして、不登校についての〈当事者〉研究の必要性を主張している。しかし、ここでひとつ大きな疑問が残される。確かに不登校に関する〈当事者〉研究は必要不可欠であろうが、では、今後の不登校研究を〈当事者〉からの視点のみで進めてよいのだろうか。というのも、〈当事者〉だけではなく、その〈支援者〉も、この問題について真剣に取り組んでいるはずだからである。
 では、貴戸が不登校の〈当事者〉研究の必要性を主張する以前の不登校経験者・当事者は、ずっと自分たちの声を噛み殺してきたわけでも、単に〈支援者〉に代弁させているわけでもない。自らの体験を振り返って記述し問題を広く世間に訴えようとする人々は、かつても存在したし、いまも存在する。〈支援者〉が〈当事者〉と関わるということは、まず〈支援者〉が〈当事者〉の体験を理解することから始まるといえるはずである。しかし、不登校経験者・当事者の体験を〈支援者〉は理解することができるのだろうか。とくに、虐待経験のある不登校の子どものこころを、〈支援者〉は本当に理解することができるのか。というのも、虫垂炎に罹ったことのない者がその痛みを知ることができないように、不登校体験や虐待を受けた経験をしたことのない〈支援者〉が、〈当事者〉が受けた同じ痛みを感じることは不可能だからである。
 そこで、本発表では、〈支援者〉が〈当事者〉の経験を理解することの限界性を確認しながら、それでも〈当事者〉を理解しようとすることについて、ハイデガーやレヴィナスによる存在論や他者論を手掛かりに考察したい。ある不登校経験者の体験記述を分析してみると、体験記述の実践の意味として、〈当事者〉自身が発する言葉に対し、誰か一人でも認めてくれる人がいれば〈当事者〉は生きる気力を持てるという他者の承認への欲求と、体験を記述するいまの自分が虐待を受けたときの過去の自分に対して応答するという二つの契機が見いだせるのであるが、これらは〈当事者〉が「理解」を通して二つの「他者」と関わろうとすることだといえる。これに対し〈支援者〉は、〈当事者〉固有の体験についての理解しえなさを痛感しながら、それでもなお〈当事者〉を理解したいと欲する。発表者は、『存在と時間』において「存在了解(Seinsverstaendnis)」を基礎にして展開しようとしたハイデガーの存在論と、『全体性と無限』において「他者」を「無限」として捉えて「欲望(desir)」するレヴィナスの他者論を手掛かりにして、不登校に関する〈当事者〉と〈支援者〉との相互理解の可能性について検討したい。