ヘーゲル『大論理学』における「言語」と「量」

真田 美沙(一橋大学)

 『精神現象学』(1807)「V. 理性の確信と真理A. 観察する理性c. 自己意識の無媒介な現実に対する関係の観察、人相術と頭蓋論」において、「言語」・「労働」などの「表出」は、その過剰・不足によって量的に捉えられ、伝達の成功が表現の度合いに依存しているものとして示される。そこでは、表現しすぎる場合には内面と外面の対立がなくなり伝達は成功するのだが、逆に表現したりない場合には話された言葉や成し遂げられた行動が歪曲させられる。この表現の度合いを重視した態度は、シェリングの同一哲学期の著作「私の哲学体系の叙述」における「主観と客観との間にはおよそ量的差異以外の差異は不可能である」とする「量的差異」の概念との影響関係にあるものとして考えられ、またライプニッツの「表出」とその明瞭さの度合いの関係にまで遡ることができる。しかしながら、ヘーゲルは『大論理学』(1816)「認識の理念」において、「精神」には量のカテゴリーが適用できないとすることで、『精神現象学』の段階ではまだ明確でなかった「量」のカテゴリーの適用範囲を示した。ここで量のカテゴリーの適用範囲を考察するうえで重要となるものとして「魂なるものSeelending」が挙げられる。『精神現象学』において「言語は魂Seeleとして実存する魂である」とされるように、ヘーゲルにおいてしばしば魂が言語の境位として考えられたため、言語表現が量的表象で示される根拠がここに読み取ることができる。
 以上を研究の背景とし、本発表ではまず『大論理学』「認識の理念」におけるヘーゲルの量理解を、カントの「純粋理性のパラロギスムス」とライプニッツのモナドとの関わりから明らかにする。そのうえで、『大論理学』第二版有論(1832)の序文、「外延量と内包量の同一」の2つの注釈の考察を通して、ヘーゲル『大論理学』における「言語」と「量」の関係を明らかにする。また、これらの考察から浮かび上がる「結節」の概念が果たす役割を、『大論理学』第二版の「度量の諸比例の結節線」についての記述と、序文におけるカテゴリーの紐帯としての「結節」が「意識」の前へともたらされることについての記述から明らかにする。また、この問題が『エンツュクロペディ第三部精神哲学』(1830)における人間学から精神現象学への移行、存在的形式からの解放として位置付けることができることを確認する。