「論理学はなぜ有用か」
金子 洋之(専修大学)
今回、この予稿を準備する時間があまりなく、内容がいささか支離滅裂、当日ほんとうに以下のような話になるのかどうかも怪しい(とはいえそうなるように極力努力はいたしますが)ということを予め述べさせていただきます。私は「論理学の哲学」という分野は、けっこう怪しい分野だと思っています。それは、例えば、数学の哲学とか科学哲学といった分野と比べてみれば、明らかではないでしょうか。というのも、それらの分野には一定の合意された課題があるのに対して、論理学の哲学にはそういったものはないように思えるからです。例えば、数学の哲学ならば、ベナセラフのジレンマのようなものが課題としてあり、そこからいろいろな議論が展開されてきた。(もっとも、このパラダイムには最近疑問が投げかけられてきており、ここでの話もそうした動向とは無関係ではない。)ところが、論理学の哲学にそのような課題がないわけではないけれども(例えば、論理と数学の境界とか)、それが論理学にかかわる特定の固有の哲学的課題かと言えば、そうでもない。私にはそういった課題は論理学内部の問いでしかないように思われるのです。もし論理学の哲学というものがあるとすれば、それは論理学に固有でありながら、論理学の外部とかかわるような問いを扱うのでなければならないように思われる、というわけです。では、そのような問いはあるのでしょうか。論理学の有用性にかかわる問題はそうした問いの一つだと私は考えています。論理学は、妥当な推論の学なのだから、まずは論理的推論の妥当性のメカニズムを示さなくてはならない。そのメカニズムは、すでに前提の内にあるものを顕在化させるという形で説明される。しかし、もし論理学の機能がそういうものであるならば、なぜ論理学は認識的な前進をもたらすのか、もたらすように思われるのか。これは、ダメットによってミルの問題として提出されたものです。これに対しては、ダメットや証明論的意味論の連中が、正規化された証明とそうでない証明との関係によって一定の答えを与えている。しかし、私にはその答えは満足できるものには思われません。なぜ満足できないか、それを示すことが今回の話の第一の課題です。そして、ダメットたちの答えに代わるものを提示するのが第二の課題です。
実は、この問題にかんして私は一度論文を書いたことがあります。それは、フィールドのプログラムないしヒルベルト・プログラムのいわばパクリのようなもので、これらのプログラムが数学の有用性を説明するのと同様なやり方で論理学の有用性を説明できないか、と考えたわけです。具体的にはこうです。数学の証明は、公理や定義から出発して、定理に到ったところでいったんは終わります。ところで、そうした証明が途中段階で終わらずに、定理に到って終わるのはなぜでしょうか。その定理に到る何歩か前で止まって、その止まったところの命題を定理と呼んではどうしていけないのでしょうか。そう考えると、出発点になる定理と証明が終了する定理との間には、証明途中の命題にはない何らかのつながりがあるのではないか。そう考えて、ブラウワー的な認識論でもってそれを説明しようと考えたわけです。もし、そのような認識的な相違(つまり、公理や定理はもつけれども、途中の命題はもたない何らかの認識的な質の違い)をうまく言えれば、そうした認識的な質をもつものをヒルベルト流の有限命題とみなし、途中の命題をイデアールな命題と重ね合わせることができる。そうすれば、論理的な推論規則が、そうした有限命題に類するものにかんしてconservativeであることを言えれば、論理学の有用性がダメットとは違った意味で説明できるのではないか、こう考えたわけです。しかしこれは明らかに雑な議論であり、もっと洗練させなければ、それが正しいかどうかすら判断できない。そこで、今回はこの話をもう一段階洗練させるということを試みたいと思います。それを通して、「論理学の哲学」が何であるかを検討してみたいと思います。