時間にとって本質的な変化は何か:マクタガートとメラーに即して

梶本 尚敏(京都大学)

 変化が時間にとって本質的であることは古代より様々な哲学者によって主張されてきた。確かに、変化が時間にとって本質的であることは疑いようがないように思われる。一切のものが変化していない世界でも時間は経過すると主張する人もいるかもしれない。しかし、これは無理であろう。というのも、一切のものが変化しない世界で時間が経過することを知るためには観測者もその世界にいる必要がある。だが、その世界では一切のものが変化しないのであるから、その観測者や観測者の意識も変化することは出来ず、したがって時間を知覚・理解することも出来ない。さて、このように時間にとって変化が本質的だと主張されるとき、何の変化が時間にとって本質的な変化だと想定されているのだろうか。
 マクタガートという哲学者は「時間の非実在性の証明」において二つの変化の概念を提案した。一つは出来事のA系列的な変化である。これは出来事が未来から現在へ、現在から過去へと移っていく変化であり、マクタガートはもし時間が実在するならこのA系列的な変化が時間にとって本質的であると考えた。もう一つは個物のB系列的な変化であり、これはある時点で熱かった火かき棒が冷たくなるというような変化である。メラーはこのB系列的な変化が時間にとって本質的だと考えた。
 私は個物のB系列的な変化が時間の本質的な変化だと考えるので、本発表ではB系列的な変化を擁護していく。まず第一章では、現代的な時間論の端緒となった、マクタガートによる「時間の非実在性の証明」とA系列的な変化について説明した後、マクタガートの証明から生じた二つの立場を紹介する。その二つの立場とは、A系列的な変化を時間にとって本質的と考えるA系列主義とB系列的な変化を時間にとって本質的だと考えるB系列主義である。その後、代表的なB系列主義者であるメラーによるA系列主義者への反論を追い、ここで出来事のA系列的な変化が時間にとって本質的ではないことを示す。第二章ではB系列的な変化をメラーの議論を通じて追った後に、メラーが直面する物の一時的内在的性質の問題を見ていく。この問題に対するメラーの解答は不十分に思われるので、第三章において私なりの解決法を提案し、物のB系列的な変化のほうが時間にとって本質的であることを示していきたいと思う。