芸術作品の評価における道徳的反応の役割:作品の不道徳性とは何か
森 功次(東京大学/日本学術振興会特別研究員)
3人の映画好きが、マフィア映画の傑作『ゴッドファーザー』について、こう話している。春男「この映画の見所は、なんといってもボスの冷酷非情な振る舞いだ。とりわけ、あの残酷な殺戮シーンは、素晴らしい。」
長治「何言ってるんだ。この作品が傑作たりえたのは、真の家族愛を描いているからだよ。」
重彦「いや、残虐性とか愛とか、作品の評価に関係ないんじゃないかな。絶妙な音楽とカメラワークがこの映画を傑作にしているんだよ。」
このありふれた映画談義のうちに現れているのは、〈芸術作品のうちにある倫理的な要素は、作品の価値にどう関わるのか〉という、美学における伝統的な問いである。善を描くことで作品の価値は向上するのだろうか? 不道徳な行為の賛美によって作品の価値が向上するなどということは、はたしてありうるのだろうか? そして、そもそも作品の倫理性は、作品の芸術的価値に関係するのだろうか?
近年、英語圏の美学者たちの間で、こうした問題がふたたび注目を集めている。本発表では、近年の(とりわけBerys Gaut, Daniel Jacobson, Robert Steckerらの)議論を紹介しつつ、現在の論争状況を整理し、各立場間の争点を明示したい。
本発表ではまず、ゴート(Art, Emotion and Ethics. 2007)の議論を援用しつつ、各論者の立場を倫理主義、文脈主義、自律主義の3つに分類する。この作業により、〈作品の倫理性は芸術的価値を高めうる〉という穏健な道徳主義(Carroll)、〈倫理的な要素を美的領域から切り離すことで、悪を楽しいものとして描くことができる〉という穏健な自律主義(Anderson and Dean)、〈悪の描写が作品の価値を高めている〉という不道徳主義といった曖昧な立場が、それぞれ上記の3つ立場に振り分けられ、論争状況が整理される。
この整理を受けて、つぎに、倫理的な要素が芸術的価値へ影響する仕方を、倫理的欠陥、倫理的長所の二つの方向に分けて考察する。まず倫理的欠陥からの影響を検討するにあたって、本発表が着目するのは、ゴート(倫理主義)とジェイコブソン(文脈主義)との論争である。〈ある種の不道徳作品においては、まさに不道徳な要素が作品の価値を向上させている〉というジェイコブソンの主張を退けるゴートの議論を検討することで、われわれは不道徳作品の価値の所在を明らかにすることができるだろう。
次に、作品の倫理的長所が芸術的価値を上下させることがありうるのか、という点を考察するために、説教臭い作品(didactic work)に対するゴートの批判を取り上げる。ゴートは説教臭い作品をある種の倫理的欠陥を抱えた作品として批判するが、本発表は、このゴートの戦略が、倫理主義を打ち立てるには不十分であることを示す。
この二方向の考察によって、ゴートの倫理主義がいまだ不安定な前提に立脚していることが示される。ゴートの不道徳作品に対する主張に賛同しつつ、説教臭い作品に対する主張については留保をつけることで、本発表は最終的に〈芸術的価値を左右する道徳的欠陥はすべて芸術的欠陥となるが、芸術的価値を左右する道徳的長所は芸術的欠陥になりうる〉という「不完全な倫理主義(half-way ethicism)」への足がかりを示すことになるだろう。