知覚経験の表象説の批判的考察

新川 拓哉(北海道大学)

 本発表の目的は、知覚経験の表象説は認識論的困難を孕まざるを得ないということを論じることである。そのため、批判対象としてフレッド・ドレツキの知覚経験についての表象主義的分析を取り上げ、それについて批判的に論じる。
 本発表は四章構成である。第一章では、ドレツキの知覚経験についてどのような表象主義的説明を行っているかを、主にNaturalizing the Mindにおけるドレツキの論述を再構成することによって提示する。ここでのポイントは二つある。一つは、「XがYを表象する」という語り方が為されるとき、Yは対象ではなく、対象が持っている性質であるということである。つまり、表象されるものは、環境内に実在する対象ではなく、その対象が持っているとされる性質なのである。もう一つのポイントは、対象が持っていると表象された性質と、実際にその対象が持っている性質が異なっていることが可能だということである。
 第二章では、私たちが知覚経験について考察するとき、前提として保持しなくてはならない三つの原理について述べる。ひとつは存在論的な原理であり、「世界が私たちの心から独立して存在する」ことを主張するものである。この原理は「独立性原理」と呼ばれる。残りのふたつは認識論的な原理であり、ジョン・キャンベルが「経験の説明的役割」と呼んだものである。「経験の説明的役割」は特殊的なものと一般的なものの二つがあり、それぞれ「ある対象の知覚経験によって、その知覚された対象について直示的に考えることが可能になる」と「個別的な物理的対象の概念と、そのような対象の観察可能な特性の概念は、世界についての私たちの経験によって利用可能になる」というものである。
 第三章では、ドレツキ流の表象主義的な分析枠組みのうちでは、先の三つの原理が保持できなくなってしまうということについて論じる。ここでのポイントは以下のようなものである。つまり、(1) 現象的性質(対象が持っていると表象された性質)から環境内に実在する対象を理論的存在者として導出すると、そのような存在者は独立性原理に違反してしまう。(2) (1)のような方法以外では、現象的性質(対象が持っていると表象された性質)から個別的な物理的対象の概念を得ることはできない。(3) さらに、対象が持っていると表象された性質がその対象が実際に持っている性質であるかどうかを、認知者自身の観点から決定できないがゆえに、個別的な物理的対象の観察可能な特性という概念を得ることもできない。(4) また、個別的な物理的対象に対する直示的な指示が可能ではなくなってしまう。
 以上の理由から、ドレツキ流の表象主義的な枠組みによる知覚経験の分析は、失敗していると論じる。
 第四章では、表象主義的な分析が魅力的なものにみえる病因について診断する。そして、その要因のうちの一つは保持する必要がないものであると論じることから、「知覚経験の関係説」というジョン・キャンベルが提唱する理論が、表象説の代案として有望なものでありうるということを示す。