一人称特権性についての考察—新表出主義への批判的検討—
佐藤陽平(専修大学)
「私は頭が痛い」、「私はあす雨が降ると思っている」、「私はビールが飲みたい」など、我々は自分の様々な心的状態について一人称で語っている。こうした一人称現在形の(誠実な)自己帰属を「公言(avowal)」と呼ぼう。さて、公言とそれに対応する3人称現在形の帰属と比較すると、公言の際立った特徴が明らかになる。まず、公言が為される場合、主体は自分の心的状態についていかなる観察や推論といった認識論的な媒介を経ずに為される。それにもかかわらず、聞き手はその公言が真であると額面通りに受け取り、むやみに疑ったり、訂正を求めるといった認識的評価を課さない。公言の内容はある特定の人物(当人)がある心的状態にあるといった経験的な出来事に関わっているが、通常、経験的な言明が真であると認められるには何らかの観察や推論といった認識論的媒介に訴える必要がある。ではなぜ公言は認識論的に直接に為されているにもかかわらず、受け手からの認識論的評価を免れているのだろうか?このように公言は、ある意味で特権性が認められている。現在、こうした公言の特権性について様々な立場からの説明の提案が提出されているが、本発表ではD・バーオンの「新表出主義(neo-expressivism)」の説明を検討する。バーオンは、公言の諸特徴は公言一般に共有される「表出的特徴」に訴えることで説明できると主張する。一般に公言についての表出主義は、公言は主体の心的状態についての報告をしているということを否定し、それは泣くことやわめくことといった自然の表出に取って代るより洗練された表出であるという発想から出発している。そのため、素朴な表出主義においては、公言は自然の表出と同等に扱われ、公言はいかなる命題も表わさないということになる。しかしそうだとすると、公言が推論の前提になりえること、条件法などの脈絡に埋め込みうること、「私は頭が痛くない」のような否定的公言が存在しうること、といった公言の為しうる様々な言語的振舞いが説明出来ない。では、バーオンは如何にして表出主義に対して為された様々な批判を回避しているのだろうか、そしてその上で表出主義のいかなる論点を継承しているのだろうか?そして、バーオンは表出主義の論点継承することで公言の特権性を十分な仕方で説明を与えることが出来ているだろうか?主に以上の点からバーオンの主張を批判的に検討していく。