ウィトゲンシュタインの規則遵守論における「実践」概念について
平賀 直哉(首都大学東京)
ウィトゲンシュタインの『哲学探究』における規則に従うことに関する考察、「規則遵守論」に関して、文脈に基づきながらその意義を考察する。とりわけ、核心となる箇所で登場する「実践Praxis」という概念を明らかにすることを主な目的とする。規則は、その規則に正しく従うことがどのようなことであるかを規定しているはずである。たとえば、日本の交通ルールは赤信号では止まらなければならないと規定しているはずである。それにもかかわらず、ウィトゲンシュタインは「いかなる行為も規則に従いうるし、また規則に反しうる」という受け入れがたいパラドクスを提起する。もしこれが正しいのであれば、赤信号であろうが進んでよいことになるし、あるいはたとえば「+2」という規則において1000の次に1004を書くことも正しくなる。そしてこのパラドクスはどの規則にも妥当するため、もはやあらゆる規則が破綻してしまうであろう。すると、われわれの語る言語が文法規則に従っている限りで、言葉の意味すらも規定されえないことになってしまう。
クリプキがこの問題に光を当てて以来、規則遵守論研究は自然とこのパラドクスを中心としてなされてきた。しかし本発表は、少し違う観点からこの議論にアプローチしてみたい。パラドクスの登場と解決という、言ってみればネガティヴな側面がこれまで着目されてきた一方で、「規則に従うことは実践である」という箇所がウィトゲンシュタインのポジティヴな主張の核心であるため、この箇所の意味を吟味せずには、パラドクスを含む議論全体が理解されえないであろう。
本発表の目的は、この「実践」という概念を中心に考察することで、いわば逆の側面から規則に従うということを眺めることにある。このときに手がかりとするのは、「実践」が登場した後の規則遵守論後半部である。ところが、この「実践」という概念について『探究』はこれ以上何も明示的には語っておらず、その後の箇所はまるで当たり前とも思えるような事柄について長々と述べている(ように見える)。しかし、この当たり前の中にこそ、実践という概念が示されているのではないだろうか。すると、かの難解なパラドクスとこの自明性のコントラストがいったい何を示しているのか。自明なものとしての実践に正面から向き合うことで、逆にパラドクスの奇妙さが浮かび上がると期待する。
ところで、先行研究における「実践」解釈において頻繁に登場するのが「社会(あるいは共同体)における一致」という概念であり、この概念をもとに規則に従うことを説明しようという試みが存在する。しかし、この解釈には一つの疑念を提起したい。この疑念に関して、本発表の「実践」解釈と比較しながら検討していく予定である。