初期フッサールにおける意味と対象

富山 豊(東京大学)

1 初期フッサール志向性理論の基本構図
 1894 年の「志向的対象」論文から1901 年の『論理学研究』初版までの時期におけるフッサールの志向性理論を初期志向性理論と呼ぶならば、初期志向性理論は志向性の副詞説と呼ばれる種類の立場を公式見解として採っている。また、初期志向性理論において志向性を担う単位は「作用」ないし「志向的体験」であり、各作用はそれぞれの志向的性格を特徴づける契機として、「意味」と「対象(への関係)」という二側面をもつ。このうち「意味」は、その作用の対象がその作用においてどのように与えられるかという与えられ方の様式であり、こうした意味的な性格は各作用がもつ各作用に内在的な部分として考えることができる。しかしながら「意味」という術語は初期志向性理論における公式見解として、こうした各作用に内在的な意味的契機へと例化されているところの普遍者、イデア的同一者であるとされる。このとき、各作用へと例化され、個体的に複数化された限りでの各作用の意味的契機は、各作用の「作用質料」、ないし「志向的本質」と呼ばれることになる。

2 副詞説的立場における意味と対象
 志向性の説明に関して副詞説を採ることの帰結の一つは、志向性の性格を「志向的対象」として設定された何らかの存在者の性質、ないしそれとの関係によって説明することはできないということである。したがってこの場合、作用の志向的性格の特徴づけと分析を支えるべくほとんどその全体重が作用の意味に対してかかることとなる。しかし、作用の志向的対象が存在しないようなケースを許容する副詞説において、対象の与えられ方の様式として特徴づけられるはずの作用の意味とはいかにして説明されうるものなのだろうか。副詞説的志向性理論において作用の意味と対象とはいかなるものであり、それらのなす志向性の構造とはいかなるものか。この点が第一に解明されるべき課題である。

3 イデア的意味とその例化
 続いて、イデア的存在者たる普遍者として特徴づけられる「意味」の概念と、各作用に例化されている抽象的個別者としての「作用質料」ないし「志向的本質」の概念をともにもつ初期志向性理論の存在論的枠組みを整理し、その意義を検討したい。何故、意味は普遍者でなければならないのか、普遍者と抽象的個別者を共に設定する枠組みが必要なのか、両者の関係をどのように描き出せばよいのか。こうした問いに答えるなかで、初期志向性理論における意味と対象がいかなるものであるべきかがより明らかになるであろう。