内面性と誤謬
—レヴィナスの合理主義と〈内面性の神話〉をめぐって—(仮)

小手川正二郎(慶應義塾大学)

 レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906-1995)の思想における「倫理」に関して書かれた論考が、国内海外を問わず膨大な量になっているなかで、レヴィナス哲学の土台をなす「合理主義」(rationalisme)を真正面から論じている論考は、意外なほど少ない。大抵の場合、レヴィナスの思想は、知解可能性や理性的認識からの〈他者〉の分離という、その非合理主義的性格を理由に非難されもするし、賞賛されもする。その際、レヴィナス自身が「合理主義への忠誠」を一貫して保持し続け1、繰り返し、自身を「哲学者」として位置づけていることは、なおざりにされたままである。
 本論は、レヴィナスの哲学全体を一つの緻密な合理主義の体系として捉え直すことを目標としつつ、「内面性」(intériorité)という概念に焦点をあて、レヴィナス哲学におけるその役割と現代的意義を批判的に検討することを試みる。その際、われわれはレヴィナスの哲学をレヴィナスの特異な諸用語でもって語る際に陥りがちな〈他者〉の否定神学化——否定辞による形容を重ねたり、明瞭になっていない概念を用いてレヴィナスの哲学を語ること——を避けるために、レヴィナスの思想を、内容の上で連関する他の諸思想と、レヴィナスによる言及の有無に関わりなく、可能な限り比較検討する。こうした観点から、バックグラウンドの相違に細心の注意を払いながらも、現代の言語哲学の諸知見や、「内面性」という発想それ自体に対する批判(Bouveresse)が取り上げられる。
 具体的には、「語が何か現実的な対象を意味する」という想定に対する根本的な懐疑の可能性を指摘したクリプキの議論(『ウィトゲンシュタインのパラドクス』)とレヴィナスにおける同様の懐疑の可能性(〈あるil y a〉)とが比較される2。このような比較を通じて、レヴィナスが語の「使用」の正当性ないし適法性というクリプキ的観点からではなく、主体が誰かに対して語る際の「真摯さ」(sincerité)という観点から、クリプキの懐疑論をある意味ではクリプキよりも徹底して考えて抜いていたことが指摘されよう。レヴィナスの意味論の重要なポイントは、語が何らかの対象を意味するという事態に先立つ、「誰かに対して意味する」という純粋な方向性(orientation)が、権利上、実在的ないし理念的な対象を目指す志向や内面的な情動・意思の反映とは別個に考えられるべきである以上、この方向性が、語りの主体それ自体の純粋な曝露(exposition)という形をとるということにある。その際、そのような「真摯さ」を意図や一般的な意味での「内面性」も前提とせずに、どのような仕方で問題化されうるかが検討され、そこで提示される新たな「内面性」概念がブヴレスの〈内面性の神話〉批判に耐えうるものであるかが示されねばならない3。われわれは、レヴィナスの「内面性」概念が「誤謬の可能性」と関わるという点を指摘することで、こうした課題に取り組みたい。

1. Totalitéet infini, Martinus Nijhoff, 1961 (livre de poche), p. 14.
2. Saul A. Kripke, Wittgenstein − on Rules and Private language, Cambridge,
 Massachusetts: Harvard University Press, 1982.
3. Jacque Bouveresse, Le mythe de ľ intériorité : expérience, signification et langage
 privé chez Wittgenstein
, Paris: Editions de Minuit, 1987.