レヴィナスにおける「内面性」
副題:「神の不在」における倫理の可能性
渡名喜庸哲(東京大学)
レヴィナスはあるテキストで「強制収容所的経験」から引き出すべき「真理」の一つが「内面的生に特権を取り戻すこと」にあると述べている。この「特権」は直接にはユダヤ教の復権を指すが、しかし、レヴィナスの哲学そのものにおいてこの「内面的生」の「特権」はどのような位置を与えられているのか。主著に「外部性についての試論」という副題をつけ、「全き他者」、「無限」の場所を「外部性」に見るレヴィナスが「内面的生」の「特権」を説くのはいかにしてであるのか。本発表は、この見地から、レヴィナスの哲学的テキストを分析し、そこにおける「内面性」の意義を見定める試みである。副題:「神の不在」における倫理の可能性
本発表は、『困難な自由』、『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方』という異なる時期を特徴付ける三著作を段階的に読解することにより、レヴィナスの「内面性」観の変遷を検討し、それがレヴィナスにおける倫理的主体性を一貫して特徴づけるものであることを示し、さらに、この問題が、「神の不在」の時代(おそらく「アウシュヴィッツ以降」の)における倫理の要請というレヴィナス哲学の一つの要を構成するものであることを明らかにする。
50年代においてレヴィナスはシモーヌ・ヴェイユなどのキリスト教的な思想を批判する過程で、神との直接の対面の場としての内面性を批判し、これに対し「地上の正義」を担う「倫理的活動」を対置する。この対置は神なき世俗的倫理の構築ではなく、ある種の神の不在の思想、無神論を経て、そこにおける他者との関係を通じてこそ神との関係が現われるという確信に基づいて、他者への「倫理的活動」を求めるものである。
この「無神論の要請」への返答は、61年の『全体性と無限』以降、「活動」にではなく「内面性」に求められるようになる。そこでは、他者との関係を支える主体は「内面的」と形容され、この内面的主体こそ無限の責任を担う倫理的主体であるとされるに至る。74年の『存在するとは別の仕方で』はこの内面的主体はさらにより一層根底的に捉えられるようになる。ここでは、『全体性と無限』において見られる内面的主体が、いわばさらに内奥において裏返しに抉り出される形で、「もっとも受動的」な位相で「曝け出された」主体性が描かれる。内面性を神などとの直接の対面の場として捉えることは一貫して拒否されつつ、他者への回路をより内面に求める形での主体性が思考されるようになるのである。
しかし、このような内面化の徹底化は、50年代からの同じ問題関心に支えられている。『全体性と無限』は、内面的主体を「無神論的」と言うことで、この神なき世界におけるエゴイスト的主体からいかにして倫理的主体が生起するかを論じ、『存在するとは別の仕方で』は神を「痕跡」、「彼性」として捉え、「何らかの神の死」のあとの主体性を「身代わり」として提示する。このようにして、「内面的生の特権」は、戦後彼が展開する倫理思想において、「神の不在」の時代における主体性の問いの練り上げというかたちで、一貫して重要な位置を占めているように思われるのである。