ウィトゲンシュタイン的文脈主義モデルによって知識を壊れにくくする
(仮題)

山田圭一(中央学院大学非常勤講師)

 知識とは何であるか。プラトン以来哲学の主要テーマであり続けたこの問いに対して、今日極めて斬新な答えを与えている「認識論的文脈主義」(以下単に「文脈主義」と省略)と呼ばれる立場がある。文脈主義の本質をどの点に見るかは現在も論争中であるが、私はその最も基本的なテーゼを「知識主張文(「Sはpを知っている」)の真偽が、文脈によって変化しうる」という点で押さえておきたい。たとえば「山田があれはツバメであると知っている」という知識主張文は、ある文脈の厳しい基準のもとでは偽になるが、別の文脈のより緩やかな基準のもとでは真となりうる、と文脈主義者は考えるのである。
 そしてルイスやデローズの文脈主義では、この知識の基準を上下させる「文脈」が会話的な文脈を意味することとなる。このように会話的文脈の要素によって知識の基準が変化すると考える文脈主義を「会話的文脈主義」と呼ぶとすれば、この会話的文脈主義は幾つかの問題を抱えていることが指摘されている。そのうちで最も深刻な問題となるのは、「あれはツバメではない」(pでない)という可能性を会話の中で単に言及したり気づかせたりするだけで知識の基準を上げることができるので、知識があまりにも簡単に阻却されてしまう、という「知識の壊れやすさ」の問題である。
 今回私はこの現行の会話的文脈主義が抱える問題点を、ウィトゲンシュタイン的文脈主義モデルを提示することによって克服してみたい。
 ウィトゲンシュタイン的文脈主義は二つの主張に区別することができる。一つ目は「知っていると言えるためにどのような正当化が必要であるのかは言語ゲーム可変的である」という正当化構造の文脈依存性についての主張であり、こちらを「正当化の文脈主義」と呼ぶことにしたい。そして二つ目は、「知っていると言えるためにどのような間違いの可能性を排除しなければならないのかは言語ゲーム可変的である」という排除すべき可能性の文脈依存性についての主張であり、こちらを「蝶番の文脈主義」と呼ぶことにしたい。後期のウィトゲンシュタインにおける「規準の状況依存性」の議論は、ある言語ゲームにおいて規準として機能する事柄が別の言語ゲームでは規準とならないことを示している。これは正当化の文脈主義の主張である。それに対して最晩期のウィトゲンシュタインが提示している蝶番の比喩は、われわれの言語ゲーム内部の問いと答えが成立するためには、ある種の事柄が疑いを免れていなければならないことを示している。こちらは蝶番の文脈主義の主張である。
 以上の二つの文脈主義を組み合わせたウィトゲンシュタイン的文脈主義モデルは、知識の「文脈」依存性を、知識の「言語ゲーム」依存性に置き換えることによって、会話的文脈主義において簡単に変化してしまう文脈を固定化・構造化することができるというメリットをもっている。今回は、このメリットを用いてどこまで会話的文脈主義の問題点を克服できるのかを可能な限り明らかにしてみたい。