ミシェル・アンリにおける情感性と自己性の問題(仮題)

石井達也(京都大学)

 私が私であるとはどういうことか、すなわち私の自己性とは何か。本発表において私が取り上げたいのは、この問題である。だが、そもそもこのような問いが可能であるためには、実際に私が私でなければならず、私が私ではないということはあり得ないのでなければならない。つまり、私は私であるということは、私は私でないことができない、私は私から逃れられないという絶対的な事実を示しているのである。
 私が私であるということは、私は私から逃れられないということ、つまり私は自らを自己から分離することができないということである。このことがすでに自己性の本質を指し示していると言える。それでは、その根拠はどこにあるのだろうか。こうした問題を考察する際に手がかりとなるのが、ミシェル・アンリの『現出の本質』(1963)を中心とする議論である。というのも、アンリこそがこうした「自己性」(ipséité)の問題に重要な洞察を示しているからである。すなわち、彼は自己性の本質を「情感性」(affectivité)ないし「感情」(sentiment)として捉えることによって、従来の主観性概念に代わる自己性の概念を提示したのである。
 それでは、彼の言う情感性ないし感情とはいかなるものであるか。それは、何ものかを感じる能力、すなわち何ものかを受容し何ものかによって触発される能力である「感性」(sensibilité)と混同されてはならない。つまり情感性ないし感情とは、他のものを感覚する作用でもその内容でもない。そうではなくて、それは「自ら自己自身を感じること」(se sentir soi−même)、すなわち「自己感情」(sentiment de soi)であり、「自己−触発」(auto−affection)(=触発するものと触発されるものとの同一性)である。自己性の本質がこのような意味での情感性であるということは、言い換えればいかなる超越の働きをも前提としない純粋な内在領域こそが自己性であるということである。
 しかし、このような情感性としての自己性は、アンリの言う「エゴ」(ego)とどのような関係にあるのだろうか。『現出の本質』において、情感性において成立する自己と、エゴとの関係性が不分明であることについては、すでに複数の研究者が指摘している。すなわち、自己性を表すために用いられている大文字の「自己」(Soi)という語と、「エゴ」ないし私とは同じものだと言えるだろうか、という疑問である。両者は同じものである、と私は考える。そうでなければ、「エゴの存在の意味が、当該探求のテーマである」と同書の冒頭でアンリが述べた意図がおよそ理解できなくなってしまうだろう。アンリの言う「自己」と「エゴ」との同義性は、「エゴ」の概念を従来の主観性の概念から解き放つことによって初めて理解可能となるのである。