現代英語圏における死の害についての議論

吉沢文武(千葉大学)

 私たちにはどうも死について相容れない二つの直観があるようである。一方で私たちはひとが死ぬことは存在しなくなることだと思っているが、他方で私たちは死者を想い、死者の墓を参り、死者を哀れみ、死者に献辞をし、死者を指示する。私たちは「存在しなくなることとしての死」に反する多くの直観も持っているようである。けれども死者に対してそのようなことをするとき、私たちは誰に何をしていることになるのか。そう、死んだひとは既に存在していないのである。
 死に関してさらに込み入った問題がある。おそらく多くのひとは死を不幸なことだと考えている。しかし本当に死ぬことは不幸なことだろうか?不幸だとしたらいつ?誰が?どのような意味で?死の害の問題は害、主体、時間の三つ巴の問題であり、典型的には次のようになる。死んだその本人が死によって害を被っているとすれば、それは生きている間か死後のどちらかである。もし死後に害を被るのであれば、害を被る主体がいない。生前に害を被るのであれば主体がいないという問題は避けられるが、今度は死の影響が主体に及ぶということが奇妙である。主体はまだ死んでいないのである。
 このような死についての問題は、哲学における伝統的な問題である。最も有名なのはエピクロスによる議論であり、死は私たちにとってなんでもない、と死の害を否定している。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、死後の名誉や子孫の幸福によって死者が影響を受けるか、という問題を議論している。アリストテレスは、死者は既に存在していないが死後の影響を受けるという見解を述べており、これはまさに私たちの日常の直観を表したものである。またルクレティウスは死後の非存在と生前の非存在が対称的であると考え、生前の非存在を恐れないのだから死を恐れる必要はないという主張を行う。ちなみにプラトンの『パイドン』では、死は肉体の死であり魂は不滅であるということが論じられており、プラトンの枠組みでは死の害に関するパラドキシカルな問題は生じない。
 こういった問題は現代の英語圏の分析哲学においても議論されているが、あまり盛んではなく、特に日本ではあまり知られてもいない。すき好んで死のことを考えたり話題に出したりするひとはきっと意地悪なひとか暗いひとだろう。現代における死の害についての一連の議論は、おそらくはトマス・ネーゲルの論文"Death"(1979)に始まるものである。この論文はネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房)に収められている。本発表では死の害についての一連の議論の要点をおさえ、ネーゲルを中心に論じ、それをふまえた上で一つの見解を提出したいと思う。