新井 清二 (首都大学東京大学院)
道徳の教科化への是非−デューイの倫理学から考える(仮題)
2007年6月、安倍内閣によって設置された教育再生会議は第二次報告をだした。
その中で提言として注目をあびたのが道徳の教科化である。
報告では、「全ての子供たちが、高い学力と規範意識を身につけ、知・情・意・体、
すなわち、学力、情操、意欲、体力の調和の取れた徳のある人間に成長すること」を目的とするとして、徳の教育がうたわれ、道徳の教科化が打ち出された。
報告の決定の経緯に関しては他日を待たねばならず、推測の域を出ないが、
おそらく昨年末に改訂され教育基本法の「国を愛するこころ」とも連動し、道徳の教科化は遅かれ早かれ実現されるかもしれない。実現されるだろうと仮定しよう。そのときに用いられる道徳教育の理論とはどのようなものでありうるのか。 そもそも、道徳を教育する、徳を教育するとはどのようなものでありうるのか。 プラトンはソクラテスに「徳は知である」と言わせた。ならば、徳は教育できるかもしれない。 わたしも「徳は知である」として話を進めたい。しかし、教育学者のなかにはこのことに反対するものもおおくいる。 というのも道徳の教育可能性が戦前のような訓育にならないという保証が確かではないというのが理由だ。 道徳が知であれば道徳の教科化は可能であり、考慮に値する。 そうしたとき、知識である道徳とはどのような性質のものなのか、ということがこの懸念と関わっている。 それは自然的性質なのか非自然的性質なのか、定義可能なのかできないのか、などなどいろいろややこしい問題がある。 問題は多岐に渡っているので限定する。本発表で限定のためにとりあげたいのは「民主主義」というい観点である。 この観点からみた道徳教育について検討したい。民主主義は歴史的なものかもしれないが、 すくなくとも近い将来に日本が民主国家であることをやめないという見通しのもとで話を進めることをおゆるいただきたい。
民主主義と道徳の関係を検討する上で取り上げたいのがジョン・デューイの主張である。 近年デューイの主張はヒラリー・パトナムによって取り上げらているが、パトナムのデューイ論とあわせてデューイの主張を検討したうえで、 道徳という教科について考えてみたい。
デューイの言い方では、道徳としての民主主義は生き方であり、それは教育可能である。 その方法は協同的な科学の方法によるものであり、また科学の方法は歴史の中で創られたものというよりは、発見されたものである。