北村 哲紀 (首都大学東京)
現在主義とperduranceは両立するか(仮題)
今回は、現在主義という時間についての考えとperduranceという持続についての考えが果たして両立するのかどうかを考察したい。現在主義とは、現在と現在に存在するもののみが存在するという考えである。
例えば、恐竜はかつて存在したのかもしれないけれど、存在しないし、火星の町は存在するようになるのかもしれないけれど、存在しない。 こういった、過去や未来の事物は存在せず、現在の事物のみが存在するという考えが現在主義なのである。
perduranceとは、持続についての一つの捉え方である。これは空間との類比によって理解される。 例えば、一枚のカンバスの右半分に青色が塗ってあり左半分に赤色が塗ってあるとする。 青色の右半分と赤色の左半分は別々の部分であり、それらは一枚の絵を構成している。 持続もこれと同じ様に捉えられる。例えば、ロウソクが朝に真っすぐであり午後に曲がっているとする。 この場合、ロウソクは朝の時点での真っすぐ段階を持ち午後の時点での曲がっている段階を持っていることになる。 それぞれの段階が部分としてロウソクという全体を構成していると考えられる。 こうして各時点で段階を持つことでロウソクは持続する(perdure)することをperduranceという。
今日では、現在主義とperduranceは両立しないと主張する人が比較的多い。 perduranceは元々、現在主義を否定する考え (永久主義:過去現在未来すべてにおいて事物は存在するという考え。この考えでは、例えば、恐竜は存在し、火星の町は存在することになる。) と相性が良いのであり、現在主義とは相容れないと言うのである。しかし本当にそうなのであろうか。 確かにperduranceというのは、各段階が存在する各時点を想定している。 現在主義では現在のみが存在するのであるから、各段階が存在する時点は現在のみとなる。 そうすると、現在主義とperduranceが両立するとした場合に考えうるのは、事物を部分として構成する段階がすべて現在のみに存在するか、 あるいは、事物は存在しない段階を部分として持つことで構成されるかのどちらかであるように思われる。 前者の場合、ある時点に部分がすべて存在するということになるが、 それはperduranceと対立する考え、endurance(事物は各時点ですっかり(wholly)存在し、そうすることで持続するという考え)と大差がなくなってしまう。 後者の場合、事物は存在しない段階を部分としてもつことになる。 しかし、通常、存在する事物の部分は存在すると考えられるが、現在主義とperduranceの両方をとったら、通常の考えと衝突することになってしまう。 存在しない段階を部分として持つ事物とはどのようなものだろうか。そういった事物があるということは理解しがたい。
だが、本当に現在主義とperduranceは両立しないのであろうか。それに対する反論を取り上げつつ論じたい。