河口 丈志 (東京大学)
ドゥルーズの意味の理論 意味の逆説的な本性について(仮題)
意味という問題は現代の哲学において大きなトポスを形成しており、その問題領域の広がりは今後も広がりこそすれ、狭まることはないように思われる。
そして、このトピックがこれほどの注目を集めているのには、確かな、哲学そのものの本性にかかわる理由がある。
第一に、意味の領野をそれとして論じることができるのは哲学だけであり、哲学固有の問題であること。
言語学が意味を問題にしても、それは言葉における意味についてだけであり、言葉の成立の条件としての意味を問題にしうるのは哲学しかないだろう。
第二に、意味を問うことはそれゆえ哲学の存在理由の一つであるというだけでなく、哲学はそれを問うことによってのみ成立しうるように思われること。
この観点からすれば、プラトンこそが第一哲学をそれに固有の問題を問うことにより創始したと考えることができ、
意味の理論は哲学史そのものと同じだけの歴史をもっていることになるだろう。
そして、古代のイデア論はもちろん、中世における言語論、近代における広義の意味での観念論、現代における価値論などを貫く共通の問題領野が浮かび上がってくるはずだ。
それゆえ第三に、意味という問題に着目することにより、私たちは哲学史への体系的なアプローチを取り得るようになることができるということ。
つまり、意味の探求は、哲学という営みそのものの本性についての探求へと通じているのだ。私たちの生は意味なしにはありえないものである。 歩くとき、私たちは床という意味を、また足という意味を−それと意識することはないが−把握することなくしては歩くことができない。 いや、そもそも、意味を把握しつつでなければ経験というものは成り立つことができないだろう。 それゆえ、知覚は言うまでもなく、生を成立させているのは意味(正確には意味付与)なのだ。 こうした論点についての現象学の貢献は不朽のものであるだろう。
現象学者たちのほかに、現代において意味の理論について詳細に論じた哲学者にドゥルーズがいる。 その『意味の論理学』は、かなり自由なスタイルで書かれているため読解は一見困難だが、しかしその外見からは想像できないほど緻密な論理を展開している。 ドゥルーズはここで、古代、中世、現代における意味の理論を参照しているが、現代ではラッセル、マイノング、フッサールらが言及されている。 とくにフッサールについては、理念的な意味という存在を確保しようとして哲学に導かれたこと、 その理念的なものが『論理学研究』ではSinn、『イデーンI』ではNoemaと呼ばれてその構成が問われ、 中・後期以降はその発生が問われたなどことはよく知られている。 しかしフッサールは、意味そのものの本性についての論理的な探求をあまり行わず、意味について十分な規定を与えることができていないように思われる。 そこでドゥルーズは、意味の逆説的な本性に着目して論じていたルイス・キャロルを特権的な哲学者として取りあげている。 よくキャロルの作品は、当時の論理学の矛盾を突くものとして理解されている(たとえば宗宮喜代子『アリスの論理 不思議の国の英語を読む』など)。 しかし、意味が本来からして逆説的なものであることが理解されるなら、その作品は批判的なものなどではなく、 意味の論理についての真正な探求であることが見えてくるだろう。 意味が逆説的であるのは、意味は実体的なものでも、現実存在するものでもなく、 個々の意味について指示しようとすれば無限に増殖するものであるがゆえにある命題の意味について正確について言うことは不可能である等々の本性による。
私はこの発表で、以上のことがらを前提としつつ、意味の逆説的な本性について『意味の論理学』を参照することで検討したい。 そしてそれによって、意味の問題がもつ底知れない深さに接近できればと思う。