『生命の哲学—その歴史と課題』
竹田純郎 氏(金城学院大学)
今回のシンポジウムの掲げられたテーマは「生命の哲学」である。私の理解では、「生命の哲学」とは、欧米の哲学者が、純生物学的な生命活動を哲学的に考察することを目的として、ギリシア語の「ビオス」と「哲学」とを組み合わせて、「Bio-Philosophie」と名づけたもののことである。
ところで明治の半ば頃に、欧米の流行思想に触れた日本の読書人が邦訳した言葉、それが「生命」であった。例えば、北村透谷は、エマーソンが唯心論的な意味を籠めた「ライフ」を「内部生命(inner life)」と訳した。それ以後、内村鑑三は、自らの第二の信仰箇条を「生命プラス異教」と定式化したし、西田幾多郎は自らの文化主義を「生命への意志、すなわち文化への意志である」というテーゼで表わした。このように、「生命」という言葉の系譜を辿ることができるが、この言葉は、純生物学的な生命活動だけを指しているのではない。それどころか、生涯とか生活という意味をも含意している。今挙げたように、広義の「生命」を哲学的に考察する哲学は、「生の哲学(Lebensphilosophie)」と名づけられている。例えばニーチェ、ディルタイ、ベルクソンなどを「生の哲学」に括るのが、哲学史の通説となっている。
「生の哲学」において「生」という言葉は、なにを意味するのか。(1)それが含意するものは、それぞれの哲学者が当時の自然科学から想を汲んだものである。例えば、ディルタイはヘルムホルツから想を汲んで、「概念的思考以前の思考活動」という、身体論とでもいうべき彼独自の構想を練っていたし、ニーチェはルーの概念から「力への意志」という世界論を展開している。(2)しかし、その逆のことも言える。すなわち「生の哲学」は、時代の科学研究が自明の前提としていたもの——ハイデガーの言い方をすれば「先行把握」——を批判的に考察している。例えば、生の「進展(Entwicklung)」という言葉が暗に含んでいる目的論的契機を考察している。それゆえ「生」という言葉は、純生物学的な生命活動に限定されないザッヘを示唆している。(3)ところがさらに、「生」という言葉が示唆するザッヘは、哲学史の教科書に記されている「現実(Wirklichkeit)」や「実在(Realitaet)」といった様態概念でもある。それゆえ「生」は、他の概念と交換可能な、いわば玉虫色に輝く概念である。
「生」という言葉は、多くのものを指している。とすれば、「生の哲学」から「生命の哲学」を鳥瞰することができるが、しかし後者から前者を望むことはできないということになろう。それゆえ今回のシンポジウムの報告では、「生命の哲学」について述べない。むしろ、報告を利用して明確にしてみたいことは、以下の三つ。第一に、なぜ「生」という言葉を用いなければならないのか、ということ。生の哲学者が、いわゆる「生」をスローガンに掲げた動機を明確にしてみたうえで、今もなお「生」の概念を用いてよいかどうか、を考えてみたい。第二に、「生の哲学」が哲学であるかぎり、それ固有の手法があるはずであるが、その手法を明確にしてみたい。というのは、生の哲学者が概念的思考に対抗するスローガンとして「直接的所与」や「生の事実性」をお題目としたが、それらを省察する方途をも併せて省察していたはずだからである。第三に、「生」という言葉で、今もなお問わねばならない主題はなんなのか、ということを明確にしてみたい。端的にいえば、「現代に生きる私たちにとって、リアリティとはなんなのか」ということであろうし、哲学の専門用語を用いていえば、「経験的現実」(三宅剛一)としての世界、そしてその世界の是認をめざすという意味で、「弁神論」ならぬ「弁世論(kosmodizee)」ではないだろうか。