三河 隆之 (東京大学)
「合法的殺人の論理と心理—死刑に関する倫理学的考察」

 たとえば祭祀における人身御供、戦争中の兵士による敵兵の殺人などは、文化的政治的コンテクストにおいて容認される殺人である。 とはいえ、これらの殺人は神や国家といった超越的権威を肯定することにその正当化の根拠を置いており、この正当性の是非が、殺人の是非と別に問題となる。 死刑もまた、これらと同様の構造を共有しており、あらゆる死刑は殺人そのものの是非という懐疑を介入させることなく、法の名の下に執行される。 すでに合法化されてしまっている死刑が行なわれなくなるためには、合法的に法改正を行なうか、少なくとも現行法の適用を凍結すること以外には方法がない。 だが、死刑問題の錯綜は、論理明快なまさにこの地点から始まる。

 有罪者の収監が、再犯の防止や更生の目的において肯定されるのと異なり、死刑が問題化されるのは、合法性の次元とは別に、人命を奪うことへの抵抗感があるためである。 死刑廃止論にはこれまですでに夥しい蓄積があるため、本論ではひとまずその一端を概観することから始めるが、 その多様な議論に共通するのは、たとえ法の下のことであれ人命を奪うことは許されないとする意識である。 そのような意識は、現在の死刑廃止論の趨勢が代替刑として終身刑の導入を提唱していることにも表われている。

 しかし、そのような死刑廃止論は他方で、有罪者への処遇については法およびその執行者に委ねられるということを当然視している。 死刑問題に法学者ならぬ倫理学者が取り組むべき点があると信じる限り、出発点はここに存する。すなわち、ある人間が別の人間に死を課すことは可能であるか、これである。

 いわゆる山口母子殺害事件は、妻を強姦されたうえ妻子を殺された遺族男性が、加害者の当時18歳の元少年=現青年に死刑を求める主張を行なっていることで知られる。 この遺族男性の主張を支えるものは、「被告の反省のために死刑を求める気持ち」という彼の言葉に反して、「報復として死刑を求める気持ち」であると考えられる。 自分の家族を殺されたことに対して報復感情が芽生えることは、現象としては理解可能である。実際になされる報復行動に対してさえ、われわれは一定の理解を示すことができる。 だが、加害者の死刑を求めることは、被害者の権利の名の下に合法的殺人を企むことではあるまいか。 たとえこれが言い過ぎであるとしても、死刑は、すでに犯された取り返しのつかない行為を反省するためだけに宣告され執行されるものなのだろうか。 そうではないのだとすれば、死刑は何のために科され、そして執行されるのか。

 このような問いに従事することは、倫理学者にのみ許された数少ない仕事のうちの一つであると筆者は考えている。 仮に有罪者に対する合法的な刑の執行という考え方を認めるとして、被害者(厳密には被害者の家族)の感情は量刑に反映されてよいか。 死刑執行は、有罪者の反省のために行なわれることでありうるか。被害者は有罪者の「反省」なるものの度合いや内実を計測しうるか。こうした問いを、常識や感情に抗して考えてゆきたい。