佐藤 邦政 (東京大学)
「発話の解釈的理解と知覚的理解」
「このところW杯で寝不足で原稿が遅々として進まない」この私の発話を聞いた友人はその言葉をいかにして理解しているのだろうか。 ドナルド・デイヴィッドソンによれば、このような日常的な発話も「根元的解釈」と同様に相手の発話を解釈することで理解しているとされる。 ここでいう理解とは、聞き手が話し手の言葉の意味を解釈したものと一致させることである。
発話を解釈という視点から捉えるデイヴィッドソンの議論は一見するともっともらしいが、議論の前提に大きな問題があると私は考える。 そこで、その点についてあきらかにし、解釈とは異なる発話理解の仕方があることを述べるのが今発表の趣旨である。
デイヴィッドソンの解釈の前提の1点目は、話し手の発話はもともと物理的な音でしかなく、非意味論的とされていることである。 そして2点目は、話し手と聞き手は世界の対象や出来事を共有し、そのような共有された世界からの共通の原因から真なる信念を受け取ることで、 聞き手は話し手の言葉の意味と信念を同定するとされていることである。ここからわかることは、 デイヴィッドソンの議論は発声音を含め、共通の(デイヴィッドソンの言葉では「客観的な」とも言い換えられる)物理的な実在としての世界を措定しているということである。
世界が非意味論的な証拠の集まりであり、その共通の原因から信念内容を受け取るとするデイヴィッドソンの議論は、 私たちの知覚と世界の相貌、または意味との関係についての側面を見逃しているのではないだろうか。 たとえばアヒルとウサギの反転絵を見るとき、ある人はアヒルを見、ある人はウサギを見、またある人はそもそも絵とさえ思わず、汚れを見ているかもしれない。 このように人によってその図から受け取る意味が異なっていることが知られている(アスペクト知覚)。このような例から、知覚を単に因果的観点から捉えるだけでなく、 意味の現れという観点から捉える必要があると考えられよう。
そこで、アスペクト知覚を手がかりに知覚的意味について考察し、その観点から発話を捉えることができるかどうかを考えてみたい。 現時点で私は、発話の理解も知覚的意味の一種として捉えることができると考えている。
一方で、解釈による発話理解が知覚による発話理解と両立しないわけではなく、むしろコミュニケーションにおいては解釈による発話理解も頻繁に生じていると考えられる。 そこで、余裕があれば、上記の考察を経た上であらためて解釈という行為による発話理解について考察し、その積極的な側面についても示唆してみようと思う。
最後に。今発表内容、とくに知覚については、内容的につめきれていない部分があることが予想される。参加者の皆さんから忌憚のない批判をいただけたら幸いである。