平井 靖史 (福岡大学)
「持続するモナド、純粋微小知覚、内属による自由」(仮題)
ライプニッツとベルクソン。時代背景も国籍も異なるこの二人の哲学者の間にいかなる哲学的出逢いが可能だろうか。
合理主義と生の哲学、持続の直観と内属論理の普遍化といった象徴的な対立の彼方で、二つの哲学の驚くべき同一性が再発見されるとすれば、
それはどのような筆致で描かれうるものだろうか。発表者がこれまでなして来た両哲学についての個別的研究は、すべてこの同一性の根源的な直観に根ざしている。 そこで本発表では、発表者のこれまでの研究の成果の一部として、この同一性をそれとして対象化し、いくつかの観点から解明したいと考える。 ただし言うまでもなく、同一性そのものが探求の目的であるわけではない。同一性が重要視されるのは、哲学には、同一性からしか見いだされないような差異があり、 単なる特質上の対立ではないこのような内的差異こそが、哲学に(単なる諸理説の集合ではない)固有の個体性(不可分性)を与えると考えられる限りにおいてである。
ドゥルーズは、ライプニッツについてのモノグラフ『襞』において、ベルクソンとの類同性について再三言及している。代表的なものが以下に挙げる文章である。 「ライプニッツの主題とベルクソンの理論との類似点には驚かされる。動機をめぐる幻覚への同じ批判、魂の屈折に関する同じ着想、 自由な行為の条件としての内属あるいは包摂への同じ要求、自己を表現するものとして自由な行為の同じ描写」(邦訳126頁)。
本発表では、ライプニッツ=ベルクソン同一体へのさしあたりの切り口として、試しに、ここで挙げられる論点を検討してみたい。以下、概要である。
1) 動機をめぐる幻覚とは、動機の「客体化」(主体から分離して同定可能なものとみなす)と「二重化」(諸動機の間で選択をなす動機へと退行)にかかわる。 批判がこうした幻覚に向けられるものであるなら、動機と主体と行為との関係は、どのように描き直されるのか。
2) 屈折とは魂の内部としての世界にかかわる。ベルクソンなら、世界の持続について何を述べるだろうか。
3) 内属は、ライプニッツにおいては概念の個体性の問題である。これが潜在性によって純粋記憶の理論に接合するとすれば、それはいかにしてか。
4) 自由な行為。形而上学的な、あるいは自然学的な必然性を超えて、「表現としての自由」はモナドのどのような変容を語るのか。