岩沢 宏和 (東京都立大学)
「一人称複数的視点と哲学の問題」

 私が取り組みたいと考えている、ある問いがある。その問いは、「われわれは何を正当化することができるのか」という表現によって一応は表すことができる。 しかし、この表現から実際にどういう問いを読み取るかは、人によってさまざまであり、その意味で、この表現は多義的である。 もちろん、この表現の限りでは、その問いは、認識論において中心的に問われてきた問いの一つだと言えるかもしれない。 しかし、仮にそうだとしても、問いが十分に限定されたことにはならない。というのも、私の見るところ、従来の認識論における正当化に関する問い自体が多義的だったからである。 しかも実際には、私の問おうとしていることはどうやら、従来は問われてこなかったことのようなのである。

 そこで本発表ではまず、正当化概念の分析を行う。そして、さまざまな正当化概念をいくつかの角度から分類する。 例えば、正当化されたりされなかったりするのは、何なのか。すなわち、人なのか、命題なのか、信念なのか、主張なのか、それとももっと別のものなのか。 あるいは、正当化されているとは、どういうことなのか。すなわち、確実だということなのか、他の何よりも真だと見なすべきだということなのか、 真だと見なすべき十分な理由があるということなのか、偽だと見なすよりは真だと見なすべき理由があるということなのか、それとももっと別のことなのか。こういった分類である。

 しかしながら、本発表において特に注視するのは、正当化に関して従来とられてきた視点が、大まかに言って、一人称単数的視点、三人称単数的視点、 三人称複数的視点の三つであったという点である。そして本発表では、これらとは異なる、一人称複数的視点という視点を導入する。 この視点の下での正当化に関する問い——それが、私が問いたいと思っている問いなのであるが——は、 「われわれが参加している当の議論において、われわれは何を正当化することができるのか」というものである。 そして、その問いに対して本発表で提案する大まかな答えによれば、ある議論において正当化されている言明は、 当の議論において不問の前提であると共通了解されている言明か、当の議論においてすでに根拠が与えられたことが共通了解されている言明であるということになる。

 本発表では、正当化に関する問いをこうして定式化した後、そのままその問いに本格的に取り組んでいくことはせず、 哲学の問題は、一人称複数的視点の下での正当化を踏まえるとするとどのように扱われることになるのか、という点についての論述を行う。 その際、一人称複数的視点の下での有意味性基準を提案する。その基準によれば、ある議論における言明が有意味であるためには、 当の議論において、その言明の真偽が帰結として導かれたり、その言明が他の言明の根拠の一部となったりしうる場合に限られることになる。 そして本発表では、一人称複数的視点の下では生じなくなる哲学の問題があることや、逆にほぼ従来のまま残る問題があることを指摘し、 また、いくつかの具体的な問題に対して、一人称複数的視点に基づいた論点整理を行う。 そして、そうした論述を通して、一人称複数的視点の意味合いを少しでも明らかにするつもりである。