高木 健治郎 (静岡産業大学)
「工学的合理性と反証可能性」
人類の叡智の1つとして、哲学及び思想は必ず数えられるであろう。古代社会から現代社会まで変わらぬ、という意味において哲学及び思想は叡智としての資格を充分に備えている。
対して工学及び技術は、脆弱な技術であった古代社会から現代社会まで目覚しい発展を遂げてきた。
現代社会を実質的に支えているのが工学の発展による、と言い切っても良いほどである。
哲学若手研究者フォーラムに集まる私たちは、電車や車で会場にたどり着く。フォーラムの原稿依頼やこの原稿の申し込み方法も、インターネットという工学の発展の恩恵を受けている。「ユークリッド幾何学を使って建築設計をしないが、同時代のアリストテレスの哲学を教えている」というのは現代社会に知の偽らざる事実である。 これは工学的合理性と哲学的合理性(様々な意味を含んでいるが、先ほど述べた叡智という観点に合致する意味で)の違いによるものであろう。 ただし、哲学的合理性の1つの典型としての論理学は、ブルーノ代数など現代のPCに十二分に生かされている。 ただ、数学が物理学に従属していないように論理学や哲学もそれ自体に価値がある。 工学的合理性は「共同体の善を物質的に増進させる」という目標があり、「善とは何か」という時代や地域によって偏向や偏差する問いを一端置く事によって成立している。 言い換えるならば、それ自体に価値がある、という内在的価値を持つ哲学と、それ自体に価値がない、という道具的価値を持つ工学との対比と見ることが出来る。
この問題設定に対して、科学哲学者カール・R・ポパー(Karl・R・Popper)の反証可能性を足がかりに踏み込んで行きたい。 現在、ポパー解釈はさまざまに分かれているが、この発表では、「反証可能性の意図した非決定論」と「境界設定の問題」から述べていく予定である。 なぜなら、1つには哲学の世界にはあまりにも決定論が多くあり、けれども、それが個々の哲学として独立し過ぎているからである。 この点に関しては前回、前々回のフォーラムの発表で方法論的に述べたので参照頂ければと願っている。 もう1つには、工学的合理性は、「境界設定の問題」が非常に曖昧になっているという点にある。 1つの子供用のミニカーを製品化して販売する時に考慮される要因は、 安全性、倫理的判断、玩具として道具的価値、コレクターなどの持つ内在的価値、需要と供給という経済的価値、さらには材料、設計、製造過程から排出される廃棄物問題等々、 と非常に多い。それらの何れに最優先であるか、という価値判断が下すことが困難だからである。 それゆえ、工学的合理性には「それ自体に価値がない」という道具的価値を持つのではないか、と考えている。 逆説的に観れば、哲学的合理性とは思想や倫理的合理性とは、何が優先されるかという内在的価値の体系化ではないのか、と思えなくもなくなる。 それゆえ、通時的な変化がないのかもしれない。同じく現象を対象とする哲学と工学の合理性の異なりがあるように思われる。
結論の提示が先になってしまったが現在推敲中で、発表時に変更があった場合、ご容赦頂きたい。