遠藤 耕二 (広島文教女子大学)
ジョン・ロックの信仰論における理性の役割と限界

 ジョン・ロックにおいて信仰は理性(reason)の働きと不可分である。 そして彼における信仰は、人間の独立性と宗教の自由を論じる中で重要な意味を持っており、 特に『寛容についての書簡A letter concerning Toleration(以下『書簡』)』の中では神や真理に対する個人の信仰が他者によって操作や強制を受けることができないという点が強調されている。 それはつまり、自らが心の中で獲得した信念こそが宗教において意味を持ち、逆にそうでない強制による信念というものは、どのような形であれ、 宗教そのものには不合理な結果を招くというものである。では彼において個人の信仰は宗教そのものと、そして個人の自由や独立性とどのように結びつくのだろうか。

 ロックは『人間知性論An Essay Concerning Human Understanding』の中で信念(belief)を「理性の演えきによって作られたものでない」が、 「命題提示者の刻印によって、ある異常な仕方での伝達の中で神からもたらされたようなあらゆる命題に対する同意(assent)である」という有名な語句をもって定義している。 この定義は言うまでもなく信念が個人の同意という知的行為に依存していることを意味するものであるが、 更に重要なのは、同意の対象である神によって提示された啓示はあくまで我々の「真知(knowledge)」に一致している限りにおいて我々に受け入れられるのであって、 その真知に一致しているかどうかを判断するのは、我々自身の理性以外に他ならないということである。 つまりロックにおいて個人の信念、そして信仰は、理性との関係性の中で成立するべきであり、またその関係性故に個々人の信仰の独立性が確保されているということを意味するのである。

 しかしロックによるこうした信仰や信念のとらえ方は、個々人の信仰の独立性を確保するという意味においては確かに有効であるが、 一方で、頑なな狂信者と健全な意味での信仰者とがどの部分において異なるのか、またある人の信念が他の信念の影響を強く受けて場合はどのように考慮されるべきか、 という点に対してはいまだ大きな議論の余地を与えているように思える。 というのも、ロックの宗教寛容論では信仰の強制と信仰の他からの影響との区別も大きな疑問として提起されているからである。

 そこで本発表は、『書簡』と『人間知性論』との比較を交えながら、信仰や信念における理性の役割や、信仰の他者からの独立性の意味について多角的に論じることとする。