遺伝子改造の哲学
金森 修(東京大学)
私はここ数年、「遺伝子改良の論理と倫理」(『現代思想』vol.28, no.10, 二〇〇〇年九月、pp.98-117)、「遺伝子改造社会のメタ倫理学」(『現代思想』vol.29, no.10, 二〇〇一年八月、pp.74-98)、「リベラル新優生学と設計的生命観」(『現代思想』vol.31, no.9, 二〇〇三年七月、pp.180-202)という、遺伝子改造に絡む三つの論攷を公表してきた。また、今年の『現代思想』7月号にはその一応の結論部に当たる拙稿を公表する予定である。さらに今年の初冬には、遺伝子改造に関していままで書いてきたものを、関連する対談も含めて一冊にまとめあげ、勁草書房から公刊する。この時点で、生殖系列改造という際どい話題についての私がいえることを一通りすべて開示するということだ。
この研究会では、7月に公表する拙論を元資料にして、補足的な説明を行い、またこの仕事の背景についても若干の説明を加えたい。
生殖系列細胞の遺伝子治療・遺伝子改良は、介入の効果が一世代では終わらず、後続世代に続いていく可能性をもつものであるだけに、大きな倫理的配慮が必要とされる。大枠でいうなら、1980年代終盤まで、それはほぼすべての場合に議論の話題にさえされず、またはされたとしてもただちに否定されるという場合が多かった。だが、1990年に体細胞遺伝子治療が実験的に開始されるに及び、その頃から生殖系列遺伝子改造についても、徐々に議論が出始める。それまでの一切口にしない、または触れても問答無用というスタンスのものとは異なる立場のものが、徐々に増えていった。そして、少なくとも議論の場にその話題を持ち来たらし、駄目だとするなら、それはなぜなのか、またはどんなものなら絶対に駄目なのかなどを弁別していくべきだとする考え方が、明確に述べられるようになった。
しかも一九九七年頃からは、明示的にこの話題を主題にした本がいくつも公刊されている。少なくとも、アメリカを中心とした英語圏ではこの話題は絶対的禁忌の対象から離れ、構想可能性を議論する段階に突入しつつある、と述べて良い。
もちろん、ヒトを対象にした生殖系列遺伝子改造は実はまだ実施さえされていない。だが、多様な思考実験を繰り広げることによって、もし実施された場合にはどのような哲学的・社会的・倫理的問題群が浮上してくるのかを分節しておくことは、無駄とは考えられない。今回は、私が行う思考実験と、私が提示する可能的倫理原則にたいして、忌憚のないコメント、ご批判を期待している。これは、遺伝学という個別科学の言説場で成立する、「遺伝学の哲学」だと私は考えている。通常の科学哲学とは相当異なる議論場だが、これもまた、当然成熟すべき、新しい科学哲学の一種なのだ。