不確実性の認識論 —確率・因果・曖昧性をめぐって—
一ノ瀬正樹(東京大学)
認識がおしなべて不確実性に関わっている、という見方には直観的に訴えるものがある。経験的な認識は、忘却、錯誤・錯覚、帰納、の問題に巻き込まれ、それらを一切免れていてパーフェクトに確実であると断言できる資格は誰にもない。論理的・数学的真理の認識についても、真理それ自体ではなく認識を問題にする以上、事態は同じだし、必然性が「いつでも成り立つ」を含むとするなら、やはり帰納の問題が宿命的に降りかかる。さらには、意味に関する不確実性も一般的に遍在する。ならば、認識論は不確実性をこそ主題にしなければならない。現代の認識論(epistemics)は一般にこうした自覚を共有している。実際、AIシステムでの不確実性はコンピュータ・サイエンスの重要な課題の一つである。
こうした認識に関わる不確実性は大きく二つのトピックに分けて論じることができる。一つは「確率」(probability)である。今日では、経験的知識に関して、帰納の問題を文字通りに捉えて未来に渡る知識を正当化するのではなく、得られた証拠に基づいて現在の信念をどのようにアップ・デイトしていくべきか、という形で認識論的課題が設定されることが多く、その代表は「ベイズ確証理論」である。その原理たる「ベイズ的条件づけ」が確率の「ベイズの定理」に基づくことからも分かるように、そこでは確率概念が決定的に関与している。これは不確実性の認識論に対する一つの有力なアプローチになりうる。ただし、ベイズ主義では「確率」を「信念」としてepistemicに解するが、ポパーのpropensity理論なども含めて、そもそも確率概念をどう解釈するかという問題も無視できない。不確実性にまつわる第二のトピックは「曖昧性」(vagueness)である。子ども、赤い、背が高い、などの多くの自然言語は、それを述語として文を作ったときに、どこまでが真でどこからが偽となるかの境界線が定かでなく、ボーダーライン・ケースを許容する。そこから、例の「ソライティーズ・パラドックス」(the sorites paradox)が生じてもくる。これに対しては、「認識説」(epistemic view)、「超付値主義」(supervaluationism), 「程度理論」(degree theory)など諸説が提起され、「高階の曖昧性」(higher-order vagueness)や「存在的曖昧性」(ontic vagueness)などの問題も含めて、いまなおホットな論争が続いている。
今回の私の関心は、こうした確率と曖昧性という二つの不確実性の位相が互いにどう関わっているのか、という点にある。手掛かりとなりうるのは、ドロシー・エディントンのcredence/verityの対比に関する議論と、ティム・ウイリアムソンの「反明輝性」(anti-luminosity)のテーゼの確率ヴァージョンにまつわる議論であろう。エディントンは、確率的な認識の様態をbeliefではなくcredenceと捉え、曖昧なので肯定する程度を許容するような文の外延をtruthではなくverityと表し、両者の類比関係を指摘する。そして、verityについての論理は「ファジー論理」ではなく、確率計算にのっとるべきだとする。ただし、両者の類比は構造的なレベルでのそれにすぎず、credenceは行為に影響するが、veirtyはそうではないと論じている。また、ウイリアムソンは、自身の曖昧性に関する認識説をベースにして、「すべての事態αにおいて、αにおいてCが成立しているならば、αにおいて人はCが成立していることを知りうる立場にいる」という「明輝性」のテーゼを拒絶するが、そこでの「知る」を「確率」のタームに換えても同様のことがいえるとする。これらの議論から、確率と曖昧性の異同が微妙に浮かび上がる。私は、彼らの議論を踏まえた上で、因果的知識に理解の落としどころを見いだしたい。というのも、確率的因果がよく知られた知識様態であると同時に、因果的法則の認識には曖昧性も関わってくるからである。そして、もともと認識それ自体が因果的に生じることに注意するならば、認識に確率と曖昧性の両者が入り組んで関与しているさまが明らかとなる。しかるに、私たちは現に認知を遂行し、コミュニケーションを大体成功させている。こうした事態は、最終的に、認識に「意思決定」(decision)が潜在していることを示唆していると、そう結びたい。