講演者: 納富 信留(慶応義塾大学)
講演タイトル: 魂にとって“知る”とは何か?
−哲学者・ソフィストの魅惑−
「算数・数学」を小学校から高校まで学び、「数学オリンピック」を世界で競うのは何故だろう? 「読み・書き・算盤」に含まれる実用知であれば、初歩の計算を習得すれば十分だ。それさえも今では計算機やコンピュータがあれば必要はない。頭脳の訓練のためと言うのなら、より効率のよいパズルやゲームが作れそうだ。数学を「教育」の柱に据えるのは、プラトン『国家』の教育論、及び、それを実現して「幾何学を学ばざるもの入るべからず」と掲げた学園アカデメイア以来の西洋的教育の伝統である。プラトンの教育プログラムは音楽(音階理論)や自然科学(とりわけ近代物理学)を学校教育と大学学問に根付かせ、西洋文明にとって必須の基盤となった。プラトンによれば、数学こそがこの変転し不完全な感覚界から私たちの魂を向け換え、永遠の真理・実在へと誘う意義を担うのである。「教育」は徹底した観想(テオーリア)において魂の善さを実現しようとする。しかし、このような「数学」中心の教育観は、同時代人たちには評判が芳しくなかった。ソクラテスの教えを伝える弟子の一人クセノポンや弁論術の教育家イソクラテスは、数学などの理論的学問は実生活において無用であると批判し、道徳や弁論術を役に立つ実用知として推奨する。魂の教育は、ソフィストたちのように知識を注入することで達成されるのか(これが現代の教育の実態だろうが)? 前五〜四世紀のソフィストたちは、金銭(授業料)をとって知識を与えること、それも個別の学識の授与だけでなく「徳を教える」と標榜した。彼らは、民主政下で、市民として政治的な力を揮う「徳(卓越性)」を手早く身に付けたいという、野心あふれる若者たちの欲求に応えている。「徳の教育が可能だ」と主張して若者を誘惑する職業教育者ソフィストに対して、哲学者ソクラテスはプラトン対話篇で厳しい反論を加える。しかし、哲学者対ソフィストの対決は、教育の可能性をめぐって反転する。教授可能性を唱えつつ「徳」を「知」から切り離すソフィストは、問答の末に徳が教えられないとの結論に導かれ、ソクラテスは両者の一致を唱えることで逆の立場に至る(プラトン『プロタゴラス』)。他方で、立派で善き人々からなる市民団がポリスにおいて教育を与えていると信じて疑わない常識人(『メノン』におけるアニュトス)に対しては、ソフィストとソクラテスは同じ基盤に立っている(それゆえソクラテスはソフィストとして処刑される)。ソクラテスもソフィストも、安眠する人々の生を挑発し、魂の目覚めへと魅惑していたのである。では、両者はどう異なるのか?
しかし、「魂の教育」などという古臭い言い方が、はたして現代に有効なのか?
「魂」という語をおどろおどろしいお伽話的実体の呼び名としてでなく、またたんに麗しい文学的修辞としてでもなく用いることはできるのか? 私は近代哲学の「思惟=心」とは異なる位相にある、ギリシア語の「魂(プシュケー)」に注目したい。生命原理であり倫理主体である「魂」を、「知る」という観点から哲学概念として鍛え上げるソクラテス=プラトンの営みを追ってみる。すると、「魂を配慮せよ」「学習とは想起である」「魂の目を向け換える」「死を訓練する」といった神秘的にも聞こえる呼びかけが、現代の私たち自身の問題として甦ってくる。その呼びかけに応えつつ、「私自身=魂」とは何かを根本から問い直し、「知る」というあり方の根源性に迫ってみよう。そこでは、私たちが安住する常識がつぎつぎと逆転していく様を体験しなければならない。
本報告では、とりわけ、魂の教育にかかわる二つのメタファーを検討したい。第一は、生前に私たちが知っていた全ての知を回復することが学びであるという「想起(アナムネーシス)」の説(『メノン』『パイドン』『パイドロス』)、第二は、時間のうちに変転する私たち人間が永遠に与ろうとするエロースの営み、即ち「美しきもののうちに生む」という考えである(『饗宴』)。後者は、「産婆術」という喩えにおいて、ソクラテスの哲学営為にもっとも適切な表現を与えている(『テアイテトス』)。「考え」を身ごもり生んでいくという私たちの魂の営み、そこにおいて永遠に与るという意味を、私たちが「哲学する(知を愛し求める)こと」そのものとして考えてみよう。その美しい考えが呈示される『饗宴』では、エロース(愛)とそれを賛美するディオティマは共に「ソフィスト」とも呼ばれ、呪術を操る魅惑者と語られる。ロゴスによる「生み出す」力としてのソフィストの魅力は、ここで再び哲学者のイメージと重なっていくのである。ソフィストと哲学者の重層的な交錯のうちに、魂の涵養をめぐる哲学的可能性を探りたい。