講演者: 田島 正樹(東北芸術工科大学)
講演タイトル: 魂の教育について
身体の教育(体操とかダンスなど)と対比して、魂の教育に固有の問題とは、欲望(知識欲など)、自由などをいかに教えるかという点にあろう。身体の教育の場合、事前に到達目標を示すことができるし、生徒はそれを理解する事が出来る。また教師は、目標達成以前に生徒が通過すべき諸段階やこなすべき課題を、適切な時期に順々に与える事が出来るであろう。つまり、ここでは教育の動機づけも方法も存在するのである。
しかし、たとえば知識を教えるためには、到達目標を事前に(実際に知る以前に)示しえず、したがって動機づけを与える事が出来ない。これは欲望を教えること一般にかかわる困難である。欲望を持ちたいと思うこと(欲望の欲望を持つこと)は事前にはできない。したがって、欲望を持たせようとすることも(少なくとも普通には)できない。
また自由について言えば、自由へ到達するための方法やステップが存在しない。もしあれば、我々は自由に自由への道を選ぶ事ができ、したがって不自由という事が不可能になってしまう。かくて、あらゆる問題は、もしそれが本来解きうるものならば、ただちに解けてしまうであろうし、我々は、デカルトの神ほどの全能は持ち得ないにしても、ライプニッツの神程度の全能なら十分に享受できることになってしまう。なぜなら神にとって可能なものは、当然我々にとっても可能であろうからである。
自由の教育に関しては、ギリシア人はポリスに答えを求めた。ポリスが自由を(したがって自由人を)教育するのである。自らの活動の観想を可能にするものがポリスである。活動の自由は、活動の結果の中で知られるものであるが、その結果を見る事が出来るのは自分以外の他人である。つまり、自由が活動の自由として輝き現れ、かつ判定されるためには、それを目撃し判定する観客が必要であるという洞察こそ、ギリシア人の根本的確信であった。ロビンソン・クルーソーのように孤独であっては、あるいはペルシア王のようにせいぜい佞臣たちに取り巻かれているだけであったら、本来人間は己れの活動の意味を捉える事が出来ないのである。注視と判定へとすすんで出で立つ事が、競技の本質である。輝きわたる行動の栄光は、行動の自由のアウラである。(それをギリシア人に教えたものこそホメロス!)たとえば、うまいジョークの当意即妙の発話など。(シキュオンのクレイステネスをめぐるヘロドトスの『歴史』6巻129節の記述などを参照)
他方、彼らは欲望の教育の問題を軽視した。彼らにとって最も身近な欲望は虚栄心であり、それは彼らの社交生活においてあまりにも自明なものであったため、それを自然的所与と見なし、その教育の必要を認めなかったためであろう。知識欲も、彼らは虚栄心に基づくものと考えていた。そのため彼らは、権威の問題を重要視しなかった。権威に信従することには、つねに彼らの嫉妬心が妨げとなった。ペルシア戦争第一の功労者を問われたとき、みな自分の名を第一に挙げ、その次にテミストクレスの名を挙げたと言われるゆえんである。
魂の教育における権威の問題を考えるとき、我々はディアレクティケーの問題圏域には決しておさまりきれない諸問題に直面するであろう。たとえば理解に要する時間の問題。いずれにせよここには問題が重畳しており、それらを解きほぐすのは容易ではない。