講演者: 尾上 圭介 (東京大学)
講演タイトル: ことばの形と意味

 人はことばを使って意味を表現し、伝える。使われることばの形とそれによって表現される意味との関係を論ずることが文法論であるが、その論じ方は様々にありえよう。
 文によって表現される意味というものをあらかじめ理念的にいくつかの部分ないし側面に分けておいて、その各部分(側面)を言語的に実現する言語形式にどういうものがあるかを数え上げ、その一つの意味部分においても表現されるべき意味の個々とそれを表現するために使われる言語形式との対応表を書き上げる、それが文法論だという感覚に立つ論がある。「階層的モダリティ論」と呼ばれるものがその代表であり、これは文の意味に階層的構造を想定してそれと文の文法構造としての階層構造(そういうものがあると主張する)とを重ねあわせる主張である。この種の立場の論の中には、文の意味や文法構造に階層性を認めない(その点でのみ階層的モダリティ論と異なる)ものもありうる。
 これとは対照的に、各文法形式がどういう意味を帯びるかを文法形式の側に視点を置いて記述する(動詞形態論や格助詞によって形成される連論の連語論)ことが文法論であるとする立場がある。「教科研文法」と呼ばれるものがその代表と言える。
 この両者の関係については、階層的モダリティ論の一角に教科研文法の形態論や連語論をとりこむことによって論が精密になると考える人も(階層的モダリティ論の中には)あるが、文末辞による文全体の包摂や文の文法的階層性を認めない教科研文法と階層的モダリティ論とは共有できるものではなく、安易に接着してよいものではないと、教科研文法の側では考えている。階層的モダリティ論は、時枝誠記以来の戦後陳述論の「陳述」を「モダリティ」と読み替えたところに成り立っている(陳述論の精神からは相当に離れているが)ものであり、この両者の対立は1960年代以来の時枝対反時枝(=教科研)の対立をそのまま受けつぐものとして、根が深いものがある。一口に「国語学の文法論」と言っても、一様ではない。
 さて、私の感覚からすれば、上記の二つの立場には共通のある不満を感じてしまう。それは、「この文法形式はこういう意味を表す」と言うだけで、なぜそうなのかを問おうとしないことへの不満である。
 文の意味の一側面として「話者の主観」という部分があり、その一つのあり方として「推量」というのがあって、それを表すのがウ・ヨウ、ダロウ、ヨウダ、ラシイなどであると言っても、また形式の側から、動詞のシヨウ形は非現実の運動に関する推量または意志・勧誘の意味をもつと言っても、所詮それは事実を事実として描写しているに過ぎない。同じウ・ヨウ(シヨウ形)という形式がなぜ話者の推量と話者の意志という異なる意味を表しうるのか(ちなみに、英語のwillは主語者の意志と話者の推量である)。なぜ(ピリオド直前にある場合は)それ以外の意味に広がらないのか。この形式の表す意味が構文環境(ピリオド直前か文中埋め込みか)によって、推量・意志というような“主観的”な意味であったり全くそうでなかったりするのはなぜか。そもそも、どのような文法形式にせよ、非現実の事態を語るための形式の意味が推量の系列と意志の系列(本質的には希求系列)とに分かれて、かつそれ以外ないのは、どうしてか。二つの系列の意味を同一の形式で表しうるものとそうでないものがあるのはなぜか。そういうことを考えていくのが文法論であろう。あるものをあると言うだけなら、学問は要らない。
 文法形式の多義性の構造を問うという仕方で意識されるこの種の問題は、「文法形式の表す意味は、所詮、(言表状況・文脈も構文環境も含めて)状況次第である」と言っただけでは、何ら解決されない。動詞シヨウ形(ウ・ヨウ)が推量・意志・勧誘という多義をもつ論理と、動詞ラレル(レル・ラレル)が受身・可能・自発・尊敬その他の多義をもつ論理は、全く別の次元にある。ハという一つの動詞が場合によって対比の意味を表したり表さなかったり、またそれとは独立に題目提示をしたりしなかったりすることの論理は、それらとはまた別である。従って、各文法形式の(その文における)意味を決定する“状況的”条件の次元も、それが条件として働く論理も、これまた全く別々である。そのような異質性を無視して、文法形式の意味は状況次第であるとして、その状況的条件をひたすら書き上げようとする文法論は、私には魅力がない。
 名詞と動詞がこのような格助詞でつながっていて(そこに取り立て助詞がこのように参加していて)、動詞述語の形態がこうなっていれば、その文の意味はだいたいこういうものであるという程度の、大ざっぱな文法記述・意味記述だけが必要とされるような場面では、「あるものをあると言う」だけの文法論でもあるいはこと足りるかも知れない。しかし、それでもその文の中のラレルの意味が受身なのか可能なのか自発なのかが決定できなくてはこまるし、その文中のハが対比の意味をもっているのか否かがわからなくてはこまるであろう。それを決定する条件を記述しておくと言っても、それが意味決定の条件として働く論理を(本質的には多義性発生の論理を)深く把握しているのでなければ、条件を本当に有効に整理できるものではない(それでも意味決定の条件を100パーセント記述することは不可能だと思われるだろう)。
 文法形式の多義性の構造を問うという作業を通して、私は下のような視点を得た。
 (1)コトバが意味を担うと言うとき、その担い方は一様ではない。
 (2)文法形式自身の意味とそれを使って文にもたらされる意味とは別である。
 この視角から、言語を支えとする人と意味との関係のあり方、言語における創造性というようなことについて、下の論文集で論じている。
  尾上圭介 『文法と意味 I』 2001。
  同 『文法と意味 II』2003年6月予定。いずれも、くろしお出版。