講演者: 飯田 隆 (慶應義塾大学)
講演タイトル: 日本語意味論──言語哲学と言語学
記述の理論が生誕してから100年になろうとしている。この理論を「哲学的分析のパラダイム」(エヤー)と特徴づける哲学者はさすがにもう少ないだろうが、その出現が20世紀の哲学の歴史を画する出来事であったことは広く認められているだろう。さらに、前世紀のちょうど真中でなされたストローソンによる批判にもかかわらず、ラッセルの分析は現在においてもその支持者に事欠かない。だが、それとは別に、記述の理論に関連して過去20年近く私の念頭を離れなかった問いがある。それは、記述の理論の対象である確定記述句および不定記述句と同様の意味論を備えた表現が、日本語のなかにあるかという問いである。この問いに対して、16年前の私は「ない」と答えた(『言語哲学大全I 論理と言語』1987年、勁草書房、167頁)。3年前にこの問いに立ち返ったときには、明確な答えを与えるのは時期尚早であるという、結論とも言えない結論を引き出しただけに終わった(『日本語形式意味論の試み──名詞句の意味論──』2000年、科学研究費補助金研究成果報告書、128頁)。そして、いま現在(2003年1月末)この問いに対して私が与える答えは、16年前とは正反対である。つまり、日本語にも、記述の理論によって分析されることが妥当であるかどうかを問題とできるような確定記述句および不定記述句が存在するというのが、現在の私の考えである。
こうした結論を得るのになぜ20年もかかったのだろうか。それは、言語哲学における標準言語(と標準的意味論)──述語論理の言語とそのタルスキ型意味論──の呪縛から逃れるのに20年かかったということだと私は思う。標準言語とその標準的意味論は、ある特定の存在論的枠組みを自然なものと思わせる効果をもっている。この存在論的枠組みは、量化の領域を、構造を欠いた単なる諸要素から成る集合とみなす点に現れている。そして、量化の領域を構成する要素は、英語のような言語であれば単数形の可算名詞の外延に属するものとして特徴づけられる。形式意味論において、可算名詞の複数形や非可算名詞の扱いが、解決されるべきパズルとして現れてくるのは、標準言語がまさにこうした表現を排除してきたからである。
したがって、文法上の数の区別をもたず、可算/非可算という区別も見えにくい日本語の形式意味論を構成するには、標準言語とその意味論、さらにはそれが予想する存在論を改訂することも視野に入れるのでなくてはならない。ここに、哲学の側から見たときの日本語意味論の魅力のひとつがある。
だが、他方で、言語哲学における標準言語(と標準的意味論)を完全に無視することも正しいやり方ではない。ここで私が主に考えているのは、真理条件の体系的導出という形で言語の意味論を構成する方法である。形式意味論以外の言語学の分野では、この方法のもつ利点がほとんどまったくと言ってよいほど知られていないというのが、私のもっている印象である。「意味が同じ」とか「意味が違う」といった判断のもととなる考慮はさまざまであるが、同一の状況で言われたときに、その真偽の判定が必ず一致するか、それとも、一致しない場合があるかといった考慮は、他の種類の考慮よりも明確な答えを得やすいと思われる。それにも増して重要なのは、真理が言語的意味の概念の中核にあると考えるべき理論的理由が存在することである(『言語哲学大全IV 真理と意味』は、このことを論証する試みである)。
ただし、自然言語の場合扱われるべきなのは、コンテキストに相対化された真理条件であり、さらに、どのような文の真理条件を問題にすべきかということ自体、コンテキストによって決まることがしばしばである。日本語における記述という問題に戻れば、ある表現が確定記述句なのか、それとも不確定記述句なのかは、もっぱらコンテキストによって決定されることが多い。たとえば、「生徒が笑った」という文における「生徒」は記述句であると私は主張するが、これが確定記述句であるのか、それとも不定記述句であるのかは、まったくコンテキストに依存する。もしも真理条件の体系的導出という方法が日本語の意味論の構成法として不適切であるかのように、これまで思われてきたとするならば、それは、コンテキストへの依存を適切に扱うことができないといった印象が、漠然とではあれ、もたれてきたからであろう。だが、自然言語であるならば、コンテキストへの依存は不可避である以上、この点に関して日本語を特別扱いする必要はない。コンテキストに相対的な真理条件の導出という方法は、日本語に関しても十分適用可能だからである。