講演者: 品川 哲彦 (関西大学)
講演タイトル: 応用倫理学に関わる理由

 大上段にふりかぶる稚拙なやり方だけれども、哲学とは何かという問いから話を始めたい。私は、哲学とは自明に思われていることがらを根底からあらためて問いなおす営みだとうけとめている。そして、倫理学(道徳哲学)とは倫理(道徳。ここでは両者を同義に用いる)を対象とする哲学的思索、つまり倫理の根底を問いなおす営みだと考えている。
 倫理は人びとに共有され、生活を維持し、規整するものである。だとすれば、倫理を無前提に問いなおすのは適切かとも問われよう。たとえば、「なぜ、人を殺してはいけないのか」といった問いを純粋に知的な関心から発していいのか。倫理学が倫理のもとにみずから問いを規制するなら、倫理学は論理的な吟味を経て洗練された(特定の内容の)倫理体系に近づいていくだろうし、逆に、倫理学が徹底して問いつめる姿勢を強調するなら、倫理学は倫理に対してそれを反省する次元を保持することになるだろう。ここではこの問題に深入りしないが、私は、どちらかといえば、後者の方向に共鳴している。
 倫理は人びとに共有されるものだといった。それでは、共有者の支持だけで、その倫理は正当化されるのか。おそらくそうではなくて、倫理が独善に陥らないためには、その倫理によって尊重される集団の外部にむけてもなんらかのしかたで申し開きしうるものでなくてはならない。倫理を根底から問いなおすということは、そのように、〈他〉なるものと接触しつつ考えることだと思う。
 さて、私が応用倫理学に携わるようになったのはなかば偶然によるが、なおそれを続けている理由は、上記の意味での倫理学の問いは応用倫理学のなかにもあるからにほかならない。たとえば、生命倫理学において、生命の神聖さに関する問いは価値の根底に関わる問いだし、何をもって人格と認めるかという問いは倫理の成り立つ基盤である尊重されるべき存在に関わる問いである。環境倫理学における人間中心主義と非人間中心主義の対立は、倫理の外部についてどこまで、どのように考えうるかという問いでもある。
 応用倫理学は浅いという声を聞く。当該の倫理の根底に突き進み、全体を覆しかねぬほどに緊張した問いでなければ、応用倫理学ならずとも、「浅く」なるだろう。とはいえ、具体的な問題に実行可能な回答を出すには、前提された倫理内部の調整、まさに家(oikos)内部の法(nomos)に則したという意味で「経済」的解決になりがちなのは否めない。
 応用倫理学こそが根底的な問いたりうると主張するつもりはない。ただし、応用倫理学が登場した歴史的経緯には留意しておくべきだろう。すなわち、二〇世紀前半のメタ倫理学への傾倒に対する反動として、医療問題、環境問題そのほか、人びとが実生活のなかでぶつかる倫理的な問題が注目されるようになったという背景である。だとすれば、道徳哲学(倫理学)の「現場」はどこかという問いは、人びととは誰か、人間の生活のどのような場面で倫理を考えるのか、という問いにほかならない。そしてまた同時に、日本では、上記の歴史的経緯は共有されているのか、ということも顧慮しなくてはなるまい。