発表題目:ジャン=リュック・ナンシーの共同体論における「死」の位相

渡辺 健一郎(早稲田大学)

 「共同体の哲学者」、ジャン=リュック・ナンシー。彼は一般にそう呼ばれることが多い様に思う。『無為の共同体』という出世作がまさしく彼を「共同体の哲学者」たらしめているのであるが、ここでいう「共同体」がどの様なものであるかということは、必ずしも明らかにされているとは言えないだろう。ナンシーの共同体論は彼の用いる中心的な諸ターム—有限性、分有、特異性、複数性、意味、創造、自由等々—と共に、そしてそれらと同時に理解されなければならない。本発表では、中でもとりわけ「有限性」という問題にこだわってナンシーの共同体論にアプローチしたいと考えている。
 例えば『無為の共同体』における以下の様な言表が問題となるだろう。「共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別ものではないのだ。共同体とは有限な存在たちの共同体であり、それ自体がそのようなものとして有限な共同体である」(p.49)。この記述は当然「死」の問題と共に考えられなければならないが、端的に「有限性=死」とするのは誤りである。すなわち「共同体は有限性を露呈させる」という文言を、「共同体によってわれわれが死すべき存在であるということが開示される」などと理解してはならないということだ。この様な理解では、ナンシーの哲学を、彼の批判する「営み=作品 (&oeligrvre) の領域に属する共同体」の枠に閉じ込めてしまうことになるだろう。
 「無為=脱作品化 (dés&oeliguvré)」に関わる有限性と死が問題なのだ。ここで大きな参照項となるのは『複数にして単数の存在』である。『無為の共同体』では、「共存在 (Mitsein)」の存在論的な読み直しが大きな問題として掲げられていた。しかしこの時点ではハイデガーという固有名はあまり登場することはない。その続編ともいえる『複数にして単数の存在』、とりわけその11〜13章において、ハイデガーへの直接的な言及を多く見ることができる。ここでの有限性、死をめぐるハイデガーとの差異を確認することで、改めてナンシー哲学における共同性が浮き彫りになるだろう。それゆえ、本発表では『存在と時間』における死とMitseinの扱われ方に言及した後、それに対するナンシーの応答を検討する。
   参考文献
  ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』西谷修、安原伸一朗訳、以文社、2001年
  ジャン=リュック・ナンシー『複数にして単数の存在』加藤恵介訳、松籟社、2005年