発表題目:『意味の論理学』における意味の理論と出来事の概念について

鹿野祐嗣(早稲田大学)

 フランス現代哲学の隆盛と分析哲学の成立を見ればわかるように、20世紀の哲学は様々な立場や見解を超え、一貫して出来事と言葉という二つの問題圏をめぐっていたと言っても過言ではない。その中でもとりわけドゥルーズの『意味の論理学』は、出来事の概念に基づく形而上学を展開しつつ、その出来事を語るために論理学や意味の理論にも焦点を当てたことにおいて、出来事と言葉、形而上学と論理学を架橋しようとする画期的な書物であった。そこで本発表ではまさに『意味の論理学』のこうした側面に焦点を当て、ドゥルーズが形而上学的な出来事の概念と論理学における意味の理論を交差させたことの意義を、哲学史的な観点から明らかにすることにしたい。
 具体的な内容としては以下のようになる。
 第一節では、ドゥルーズの出来事の形而上学を解説する。ドゥルーズは、実際に起きた出来事を「偶発事(accident)」と呼び、実現されたものから切り離されてそのものとして捉えられた「純粋な出来事」ないし「端的な出来事」と明確に区別している。純粋な出来事とは、それ自身においてはいかなる現前の契機も持たない純粋なポテンシャルに他ならない。それはまさに感覚的事物とは異なる「理念的(idéel)」あるいは「理想的(idéal)」なものであり、経験的な次元ではなく超越論的な次元、物理的な次元ではなく形而上学的な次元に属している。そしてこの超越論的な出来事の実現こそが、既成の事物や状態を変形して何か新しいものを創造していくのである。
 第二節では、こうした形而上学的な出来事と命題論理学との関係を検討する。また、出来事の概念をフレーゲの意味論とマイノングの対象論に接続し、ラッセルの記述理論と対比させることで、出来事の形而上学に基づいた意味の理論と誕生時点での分析哲学との関係をも明らかにする。ドゥルーズによれば、出来事こそが命題の<意味>だという。だが、この<意味>とは、ラッセル以降の分析哲学が扱う記述理論では捉えきれぬものであり、むしろ分析哲学と交差しながらも論理学には収まりきることのなかったフレーゲの意味論やマイノングの対象論に通じるものなのである
 第三節では、この特異な出来事=意味の次元が、中世スコラ哲学における「普遍」やストア派の論理学における「レクトン(語られうるもの)」に通じていることを示す。ドゥルーズの出来事の形而上学と意味の論理学は、まだ形而上学と論理学が粗雑に切り離されてはいなかった時点にまで遡ることで、その輪郭がより明確になるのである。
 このようにして展開される本発表は、ドゥルーズとともに哲学史を横断しながら「出来事」「意味」「普遍」といった概念を扱うことになるだろう。大陸系の形而上学と英米系の分析哲学といったおそらくはあまり実りのない対立構図を括弧に入れて、本発表が出来事と言葉について改めて思考を促す契機となることを願う。