「自閉症の知覚から分かること」
――障害とは何か=何が障害であることを命じるのか――
                           河野 哲也(立教大学)

 本発表は、自閉症の知覚に関する研究を頼りに、知覚と対人関係の関係性、共同世界の形成について理論的・哲学的に考察することにある。
 自閉症は、これまでコミュニケーションと対人関係の障害とみなされてきた。認知科学では、その障害は「心の理論」(他者に心的内容、たとえば、信念と欲求を想定して他者の行動を解釈する対人理解のメカニズム)の発達不全に起因するという見方が優勢であった。実際、DSM- IV(アメリカ精神医学会の『精神疾患の診断の手引』)では、自閉症は、 ①対人相互作用の質的障害、②コミュニケーションの質的障害、③反復的・常同的行動によって定義される。
 しかしながら、自身の症状に関する当事者からの報告が重なるにつれて分かってきたことは、当事者にとっての最大の問題は、対人関係よりもむしろ、知覚・運動に存することであった。もちろん、当事者が対人関係に問題を感じていないというのではない。それ以前のもっと基本的で深刻な問題として、多くの当事者が知覚と運動の困難を訴えているのである。たとえば、当事者であるウィリアムズやグランディンの自伝的叙述は、感覚性の異常の報告に満ちている。このことは、自閉症がどのような障害であるか、つまり、症状の本体とは何であるかについて新たに問い直さねばならないことを意味している。
 実は、自閉症はコミュニケーションや対人関係の障害を基盤としたものではなく(それらはむしろ二次的に発生した問題である)、それ以前の知覚・運動的な障害ではないかという指摘は、すでにさまざまな研究において指摘されている。たとえば、自閉症=心の理論の障害という図式に異を唱え、バイオロジカル・モーション知覚の障害、あるいは、共同注視の不成立など、知覚レベルでの他者把握に損傷があると主張する立場は、かなり以前から存在する。
 さらに近年、自閉症と呼ばれる人たちの基本的な困難は、他者知覚に限らず、知覚とそれに相関する運動制御そのものにあるのではないかという有力な説が登場してきた。2004年の『理論と心理学』誌では、心の理論説の批判論文が集められている。その中で、認知科学者であり哲学者であるシャンカー(Stuart Shanker)は、「自閉症の子どもがそれほどしばしば社会関係の問題を示す理由は、基本的な生物学的変化――感覚の過剰・過小反応性 sensory over and under-reactivity――が彼らの共制御的な相互作用の経験co-regulated interactive experienceに加わる能力を阻害しているからだ」(685頁)と指摘する。
 日本においても、当事者である綾屋紗月から重大な著作(『発達障害当事者研究』)が一昨年、発表された。綾屋はアフォーダンス概念を用いながら以下のように主張する。自閉症とは、「身体内外からの刺激や情報の選択肢の過剰により、意味や行動のまとめあげ、すなわち、選択肢の縮減がゆっくりな状態」であり、「一度できた意味や行動のまとめあげパターンもほどけやすい」状態として定義できるという。すなわち、知覚においては、対象からの多様な刺激の一部が対象=モノ(図)として背景(地)から絞り込まれる。そして、モノは自分が何者であるかの「自己紹介」と、自分によって知覚者がどのような行為が可能になるかについてアフォーダンスを提示する。刺激からどのような意味をまとめあげるか、あるいは、絞り込むかは本人が学習したパターンに依存するが、自閉症当事者はその「意味のまとめあげパターン」がほどけやすく、それに応じて、行動や欲求のまとめあげも解体しやすいのである。
 昨年、筆者は、三嶋博之と本宮彰子とともに日本発達心理学会で「生態学的アプローチから発達障害(自閉症)の知覚情報処理・認知システムを問い直す」というワークショップを企画し、次のように指摘した。自閉症においては、動的事象の知覚の困難性と、形態知覚の優位性とが共存して見られる場合が多い。これは、変化の凍結された静止イメージの知覚に優れる反面、変化のパターンとしての「不変項」の知覚に困難を抱えていることを意味すると考えられる。
 三嶋・本宮・河野の「動的知覚困難」説と綾屋の「まとめあげ困難」説とは共通点が多く、統合可能である。シャンカーの理論も含め、これらの見解の一致は、自閉症を知覚・運動制御障害として捉えなおすべき可能性を示唆している。もちろん、この理論の正しさはまだ完全に証明できておらず、今後の課題である。
 しかし、もしこの説が正しいとすれば、「自閉」症という障害名は適切ではないことになる。そしてさらに、なぜ、知覚と運動の制御に関わる問題が、コミュニケーションや対人関係の障害という派生的な問題へと変換され、最終的に、「自閉」症として名づけられてしまうのかを問題化できるだろう。
 そのような診断をしてしまう私たちは、他者自身の立場に立って、その知覚と運動、その生活を理解しようとしていないのだ。自閉症という命名は、他者を、私にとっての他者、あるいは、私に関係する限りでの他者として捉えたときに生じる。「私にとっての他者」とは、断片化された他者である。このような見方を、医学や教育学は、取ってしまいかねないことを指摘できるかもしれない。本発表では、知覚と間主観世界の関係、そして、間主観世界における「障害」なるものの意味づけについても、考察を深めてみたい。

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