絶対的全体としての世界をめぐる問題

北村 直彰(慶應義塾大学)

 「世界」という概念は多義的であるが,それが意味すると考えられうるもののひとつとして,「存在するすべ てのもの」が挙げられる.「宇宙」という概念もまたこの意味で使われることがあるだろう.このとき,「世 界」や「宇宙」に付与された「すべて」という全体性を,なんらかの仕方での相対化を許すものとして捉える か,もっとも強いいみで,すなわち絶対的なものとして捉えるかに応じて,(「存在するすべてもの」として の)「世界」や「宇宙」には2つの用法が考えられることになる.前者の場合の典型として挙げられるのは,た とえば「神」や「物自体」などの存在を「世界」や「宇宙」の外部に許容する場合である.また,天文学や物 理学で通常用いられる「宇宙」は,その外部に特定の存在者が前提されているわけではないが,理論の相違に 応じてその全体性の程度が異なりうるものであり,外部の存在を常に有意味に問うことができるという意味で は,相対化の可能性に開かれた暫定的な全体であると言うことができる.これに対して後者の場合には,こう した相対化を一切許さない文字通りのすべて,ありとあらゆるものの絶対的全体が考えられている.この意味 では,「世界」や「宇宙」の外部は定義上ありえないことになる.
 形而上学固有の考察対象を特徴づけようとするとき,こうした絶対的な全体としての「世界」や「宇宙」が, そのひとつの候補となるだろう.しかし,絶対的全体としての世界がどのような存在論的身分をもつかに関し てはいくつかの大きな問題がある.たとえば,
  1. 「ありとあらゆるもの」からなる全包括的な議論領域は存在するか.
  2. 全包括的な議論領域をその範囲としうる無制限な量化は可能か.
  3. ありとあらゆるものの全体としての世界は単一の個体として存在するか.
  4. 全体としての世界と部分としての個々の対象は,どちらが存在論的に基礎的なのか.
  5. 「ありとあらゆるもの」の中には,「黄金の山」や「丸い四角」のような非存在対象も含まれているか.
などといった問題が挙げられる.こうした問題を考察することは,「世界」や「宇宙」が何を意味しうるのか ということはもちろん,形而上学固有の考察対象として何を認めるべきか,また,「なぜ世界は存在するのか」 といった伝統的な形而上学的問題をいかに考えればよいかといったことについても示唆を与えるものと思わ れる.
 本発表では,上述の「絶対的全体としての世界はひとつの個体として存在するか」という問題に焦点を当 て,この問題をめぐる近年の議論の一部を検討する.具体的には,この問題に関する否定的な見解としてサイ モンズの議論("The Universe" (2003)) を,肯定的な見解としてヴァルツィの議論("The Universe Among Other Things" (2006)) を取り上げ,ヴァルツィのサイモンズに対する批判が十分には成功していないことを 示す.そのうえで,ヴァルツィとは異なる仕方で個体としての世界の存在を認めるための方策を提示する.さ らに,上に挙げた関連する諸問題についても,それらの理論的射程や,考察の核となる論点,論争の状況など を明らかにする.