初期フッサールにおける充実概念について

葛谷 潤(東京大学)

 フッサールにとって認識論は,同時に第一哲学でもあった.フィリプスの述べるとおり,「認識論は,我々が実際に持っているデータに基づいて現実それ自体についての知識を得ることができるかどうかという科学的で形而上学的な問いには答えることができないが,それはいかなる正当性を持った意味において我々が客観性それ自体について語りうるかを探求するのである.これが何故認識論が科学や形而上学よりもより基本的なものであるかの第一の理由である.」(※, p. 269)
 フッサールは『論理学研究』(1900/01)において、認識を「志向の直観による充実」として特徴づけ、この枠組みの下で認識概念を解明していったが、この特徴付けは上で確認したようなフッサールの認識観をそのまま反映している。志向とは、我々が何らかの対象についての言語的表現を理解し、また表現において何かについて語ることである。このような我々の語りは、しかしそのままでは正当性を持たない。それは直観によって正当化を受けなければならない。この正当化のことをフッサールは充実と呼ぶ。したがってフッサールにおいて認識論は志向、直観、充実というそれぞれの局面において我々が何をなしているかを明確化することを第一の課題とすることになる。
 さて、彼は『論理学研究』においてその充実を担うところの直観の範例として知覚を考え、これが「対象そのもの」を与えると考える。そして彼は『論研』第六研究において知覚を集中的に分析している。彼の学問論的関心を考慮すれば、これは学問的言明に対する様々な充実において知覚を基礎的とみなしたことの現れといえよう。この分析対象の制限は必ずしも自明なものではないということは、我々が何らかの言明を検証しようとするとき、常に知覚に頼っているわけではないということを考えてみただけでも明らかだろう。フッサールは、いかなる意味で知覚は基礎的だと考えたのだろうか。
 この理由は、フッサールと共に知覚の具体的な分析へと入り込んでしまうと見えにくくなる。このことを理解するためには、フッサールにおいて充実として一般的にいかなるものを考えていたかを前もって把握しなければならない。そしてこのことは充実があくまで「志向の直観による充実」である以上、志向と直観の本質的な連関の理解を要求する。
 フッサールは充実を、名辞と文における志向に関してそれぞれ問題にする。これについて『論理学研究』において彼の一般的見解が示されるのは特に彼が数学的な言明について語る箇所である。本発表は、『論理学研究』において、主に数名辞と数学的言明に関する彼の分析を通じて、彼が充実概念をいかなる形で捉えていたかを確認したい。このことを踏まえた上ではじめて、彼の知覚に関する具体的な分析に明確な観点のもとで入りこむ事が可能になるだろう。


※ Herman Philipse, 'Transzendental Idealism,' The Cambridge Companion to Husserl, Barry Smith & David Woodruff Smith(ed.), 1995.