語られるものとしての武士道

佐竹彬(千葉大学)

 一般に、「武士道とは」という問いの答えとしては、さまざま聞くことができる。たとえば主君への忠義。たとえば朋輩への義理。たとえば一騎打ち。たとえば新渡戸稲造。たとえば「死ぬことと見つけたり」。ほかにも礼儀を尊び、信に厚く、誠実を重んじ、戦となれば勇猛に刃を交えるといった印象も強いだろう。同じ「武士道」という語に、我々はこれほど多様な意味を与えている。あるいは抽出している。
 武士道という言葉はこのように多岐に亘る意味を持つ、と考えてきたが、本当にそうだろうか? 複合的な概念であることは、おそらく間違いない。武士道には忠が含まれ、あるいは孝が含まれる。これは一般的な見解としてありそうである。他方、だからといって忠が武士道であるとか孝が武士道であるとかいう言い方はしない。単一の概念、あるいは思想を指示する用語ではなさそうである。
 しかしそもそも、用法が固定化されていないという点のほうが、武士道を語る上で重要であるようにも思われる。世にある武士道書に見られる「武士道」の語が、すべて同じ使われ方をしているとは到底思えないし、現にそうだろう。時代によって含意していることは違うはずであり、同時代の著作であっても、あるいは「武士道」が指示する対象が同一であるとは限らない。さらにまた、同一人物による同一著書の中でも、「xが武士道である(武士道とはxである)」といった記述のxが複数存在していることが稀ではない。『葉隠』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」と「武士道とは死狂いなり」という二つの文が見られるが、これらは似て非なる言明である。これらは「武士道」という語を使うとき、そのつど異なる定義を与えているというよりも、一貫した定義に従って異なる使い方をしているように思われる。ただしこの「一貫した定義」とは、せいぜい著者の内部で一貫しているだけであり、誰にとっても同一の定義が与えられるとは限らない。
 してみれば、武士が生きていた時代においても、「武士道」に関する記述はあくまで記述者における「武士道論」に過ぎない。もちろん、その論を共有する武士がいなかったわけではないだろうが、武士全体に通じるものであったかどうかは定かではない。だからといってその論が無価値であると断ずるつもりは全くないが、それを「=武士道」として良いわけでもないだろう。
 こうした背景を、武士道研究者がどこまで把握しているか、またこういった「武士道」という語あるいは概念を、その複雑さにどこまで自覚的に使用しているかを、磯野清『日本武士道詳論』などを手引としつつ論じていきたい。