ジャンケレヴィッチ哲学におけるオデュッセイアの契機

三河 隆之(東京大学)

 本発表は、フランスの特異な哲学者ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)の思考の通時的特色を、「オデュッセイア」(ここではホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』で展開されている、オデュッセウスを中心とした一連の物語を指すものとする)という範型的モチーフに依拠しつつ総括し直す試みの一環である。哲学、倫理学、音楽論といった分野において、それぞれ一見すると極めて多岐にわたる議論を展開しているジャンケレヴィッチの言説に関しては、個別の議論に即した研究が途上であることにまして、その仕事の枠組を大きく捉える視座を得ることが難しい。もちろん、いくつかの独特の術語(たとえば「ほとんど無」や「グリザイユ」)や、しばしばなされる「分類しがたい哲学者」といった形容が、彼の哲学の一面を語っていないわけではないけれども、実際に残されたテクストにあくまで忠実にジャンケレヴィッチ思想の包括的枠組を模索することは、未だなされていない。この受容史的不備を受けて本発表は、これまでの研究の成果も踏まえつつ、あえて大胆に枠組提示に挑むことに着手するものである。
 今回はその糸口として、時間性に関する議論のひとつを取り上げることから始めたい。『冒険・倦怠・真摯』([この形態では]1963年)ではオデュッセイアが言及されることはほとんどないのだが、その表題を構成する三つの単語は、それぞれ実存者における未来性、過去性、現在性を指すものとされており、これらが「基本的な三つの時制」と位置づけられている。ここでなされる時間規定は、別のところでなされている形而上学的な時間論とは異なり、あくまで個別的な主観性に依拠しつつ、その主観の行為に着目してなされている。つまり、ここで捉えられようとしているのは、あくまでその担い手自身に特有の時間性、しかも必ず何らかの個別的事象を捨象することが許されないかたちでしか把握できないような時間性である。
 この点を確認した上で、本発表は考察対象を『不可逆性と郷愁』(1974年[邦訳『還らぬ時と郷愁』仲澤紀雄訳、国文社1994年])へと移す。ここではオデュッセウスの冒険譚を縦糸としつつ、とりわけ過去の過去性を可能な限り言語化することが試みられており、時間の不可逆性、出来事の一回性、予見不可能性、起こってしまった出来事の取消不可能性が全編で繰り返し強調される。晩年のジャンケレヴィッチは道徳至上主義に傾いたため、こうした表向きの主張だけを並べると単調な議論であると受け止められがちであるが、しかしここには、オデュッセイアの諸段階で構成されるマクロな時間性と、冒険=郷愁主体であるオデュッセウスが被っているミクロな時間性とが多角的に検討される材料が揃っている。本発表は、ただし十分に整理されているとは言いがたいテクストを解析することを通じ、ジャンケレヴィッチの試みた倫理の時間論、ないし時間の倫理学の一面を明確化したい。なお、可能であれば『後期シェリング哲学における精神のオデュッセイア』(1932年)で扱われたシェリングの「世界時代」論との関連、また、オデュッセイア・モチーフの『純粋と不純』(1960年)への通底性にまで言及したい。