ヒュームにおける懐疑論と心理学的説明

鵜殿慧(慶應義塾大学)

 デイヴィッド・ヒュームが『人間知性研究』(An Enquiry concerning Human Understanding)第四章において提出した「事実に関する推論に対する懐疑的反論」は「帰納法に対する懐疑論」として知られる有名な議論である。ここにおいて、ヒュームは自然の諸力および原理についての我々の無知を説く。しかし、ヒュームのこの懐疑論は、彼自身が標榜する「人間本性の科学(science of human nature)」と衝突するように思われる。というのも、ヒュームの懐疑論は、「人間本性の科学」における、人間精神の諸力および原理に関する一般的想定をも批判するように思われるからである。本発表では、彼の懐疑論が、いかにして彼の「人間本性の科学」と整合的でありうるのか、について明らかにしたい。
 ヒュームは、『人間知性研究』の第一章において、「人間本性の科学」の目的を、ニュートンが自然哲学において、自然現象が依存する一般で普遍的な原理を発見したのと同様に、「人間精神を動かし、作用させる、秘密の発動力と原理を発見すること」、としている。このような、人間の心理現象をいわば自然哲学的な方法に基づいて解明しようとするヒュームの基本的な立場は、しばしば「自然主義(naturalism)」と呼ばれる。より簡単に言えば、ヒュームは現代でいう(経験科学の一部としての)心理学を行っているとみなされる。
 しかし、一方で『人間知性研究』第四章においてヒュームが提出した懐疑論は、経験されていない一切の対象に対して普遍的な疑いを投げかける。こうした懐疑の対象には、「太陽が明日昇るであろう。」といった日常的確信や、「空中に投げ上げられた物体は落下する。」といった一般的法則に関する知識、さらには「自然の規則的な経過が将来においても続く」という自然の斉一性の原理も含まれる。しかし、彼のこうした懐疑論は自然の諸力および原理のみならず、彼が「人間本性の科学」において、前提とされているような、人間精神の諸力および原理の存在に対しても、疑いを投げかけているように思われる。
 ヒュームは「人間本性の科学」における一般的想定と相容れないように思われる、こうした懐疑論を提出するとき、自身の哲学的な立場を一貫させているといえるのだろうか。この問題に対して、私はヒュームの懐疑論を、彼の心理学的探求という目的に合致する仕方で理解する、という方針に基づいて解決を与えたいと考える。具体的には、私は『人間知性研究』第五章におけるヒュームの記述に基づいて、彼が哲学的な懐疑を一つの心的作用として捉え、それが我々の信念という心的作用にどのような影響を与えるか、という心理学的観点から考察を行っている、という解釈を示したい。