懐疑論的観念論を論駁する

平井靖史(福岡大学)

 外界の実在性をめぐる懐疑論に対するベルクソンの反論の本質的な妥当性を吟味する。この反論は、カントやムーアやカルナップやクワインのような「有名な」議論においてもすっかり見過ごされているようにみえる、ある根源的な先入見を突くものである。今回の発表の目的は、この反論を紹介した上で、懐疑論に詳しい諸氏の意見をあおぎつつこれを批判的に検討し、その現代的射程を見定める点にある。
 まず、予備作業として、通常外界に対する懐疑論の名の下に一括されている錯綜した問題の中から、二つの構造的に異なる議論を切り分ける。(A)一つは夢と現実の決定不能性に依拠する懐疑論であり、この議論によれば、私たちは自らの経験が夢でないということを確証出来ない(以下「確証不能モデル」と呼ぶ)。(B) 他方は、認識の実在への到達不能性に依拠する懐疑論であり、この議論によれば、私たちは自らの認識は実在に届きえない(以下「到達不能モデル」と呼ぶ)。もちろんこれは十分にデリケートな区別であるため、誤解を避ける丁寧な論述を準備しない限り、たとえば「夢でないということを確証出来ないのはまさに実在に到達しえないからではないか(したがって二つのモデルの区別は不適切ではないか)」といった異論がすぐに出るであろうことが強く予想されるので、発表ではこの点万全を期したいと思う(以上、予備作業)。
 さて、本発表で論駁対象とするのは、懐疑論の到達不能モデルである(確証不能モデルは論駁する必要がないことも示す予定)。現象と実在の間に認識論的懸隔を設定し、実在をこの懸隔の彼岸におくこの懐疑論に対して、本発表が用意するベルクソン的反駁の(重要な)部分だけを以下に示す。
[1] 一つの実在に対して複数の異なる現象経験が成立するという事実、および
[2] 実在そのものが持たない感覚質を、現にわれわれの現象体験は有しているという事実は、
どちらも[3]現象と実在の認識論的懸隔(そしてこれは到達不能性を含意する)を必ずしも導かない。
 [1][2]を(観念論とともに)認めた上で、[3]認識論的懸隔の導出の手前で観念論を阻止する。観念論者および観念論に説得されてしまう人が、[1]や[2]から自然に[3]の懸隔へと導かれる場合に、そこにはひとつの暗黙の思考習慣(これをベルクソンは「増加の道」と呼ぶ)が介在している。実在が持っていないもの(感覚質)を現象が有しているならば、それは認識経路のどこかで生成されたに違いない、という(おそらくは推論と呼べぬほどに非自覚的な)この推論は、しかしながら決して自明でなく、われわれの認識の素材となる電磁波や音波に関してはむしろ適用の妥当性が低い可能性がある。「無から有を得るには、何らかの付加・生成が必要である」とする「増加の道」は、(「事物」については適切かもしれないが)「性質」については不適格でありうることを指摘して、この思考習慣の自明性を解除し、[1][2]から[3]の導出をくい留めることが反論の骨子である。
 仮に各現象と実在が「部分と全体」の関係にあると考えてみよう。すると、[1]〔数的非対応性〕を認めても、[2] 〔(一方のみが質的であるという意味での)質的差異〕を認めても、認識論的懸隔は導かれないことがわかる。われわれが手にする現象が(実在と別個に生成されるコピーではなく)実在の真部分であり、また真部分であるというまさにそのことから[1]や[2]などの差異が説明されるのであれば、問題の懸隔は無用となる。この場合、感覚質は、これを欠く実在から一種の部分的選別フィルタリング(「減少の道」)によって得られることになるだろう(cf. 赤色光と白色光の関係。詳細は発表にて)。すると感覚質はどうやって(脳や心によって)作り出されるのかという問いも不要になって一石二鳥。
 真の困難は、この可能性が検討すらされないほどに、「増加の道」がわれわれにとって強力な自明さを呈している点にある。懐疑論の強力さがこの未反省の思考習慣の強力さに起因しているなら、その牙城は反省によって切り崩すことができないものではないように思えるのですが、どうでしょうか。それともこのような可能性はあまりに形而上学的に響くのでしょうか。是非とも皆さんの批判的な意見を伺いたいと思います。